慶長19年(1614)12月4日。 大坂の豊臣方と、江戸の徳川方があ手切れとなり、すでに開戦の火ぶたは切られた物の、大坂方は戦の方針を決めることもままならず、ついに城を徳川方に幾重 にも包囲される事になってしまった。 その大坂方にあって、真田幸村は、天下の巨城「大坂城」の南門外に砦を築き、それに籠もった。 幸村の見るところ、大坂城にあってはその唯一の寄せ所が南門であり、それを側面から防ぐ為に、この砦を築いたのだ。 この砦に幸村と、幸村を慕い集まった兵、5、6千が雲霞の如き徳川勢を前に立ちはだかっている。 この大坂城の出城たる、砦こそ「真田丸」である。 にわか作りの砦に、空壕を一重巡らした砦を、徳川方は鎧袖一触の思いであっただろう。 真田丸を正面に布陣する寄せ手の加賀前田勢、越前松平勢などを合わせただけでも、真田丸の兵力を数倍するのだ。 12月4日払暁、真田丸より正面前田勢に、何やらはやし立てる雑言が飛び交った。 明らかな挑発行為である。まだ開戦命令も東軍総帥である内府(徳川家康)より出て居ない以上、勝手に戦端を開くことは重大な軍紀違反である。 前田勢も容易に挑発には、乗らないはずであった。 だが、執拗に信州真田のなまりで、雑言を飛ばされると同時に、密かに真田丸より出た真田勢が、小山に密かに陣取り、前田勢に鉄砲を撃ちかけて来たのであ る。 城方の方が、まさか砦を出てまでとは思いもよらず、前田勢は驚き浮き足だった。 鉄砲の轟音の数だけ、前田勢の兵は確実に撃たれて行く。あいつ等を討ち取れ、と言わんばかりに、確たる命令も無いまま、真田勢へと引きずられて行く形にな り、いつしか前田勢はその一部が真田丸へと導かれて行った。 こうなると、功に逸る者は我先にと、真田丸へ攻めかかる形となり、これを見た寄せ手徳川方の諸大名も、「前田勢に手柄を取られるな」と、その背後より真田 丸へ続々と攻め掛かってきたのだ。 越前前田利常旗下を先頭に、松平忠直、井伊直隆、藤堂高虎、寺沢広高らが続々と、真田丸へ引き寄せられて来ていた。 だが、後続が続々と押し寄せて、先手の形となった前田勢は焦った。 真田丸へ取り付いて分かったことだが、空壕に3重に巡らされた柵が攻め上がるのに邪魔になり、そこを鉄砲や矢で狙われると、無防備にバタバタと撃たれて行 くのだ。 そこを抜け壕を登ろうと見上げれば、微妙に反り返った壕は、容易に登れず、ここでも屍を晒すことになる。 ここに来て、進むも出来ず、かといって後続が「手柄を取られるな」と勢い、押し寄せて来るため、退却も出来ない状態になったのだ。 前田、松平勢などは、真田勢に撃ち掛かる前に、いたずらに死者を増やした。 そして皮肉な事に、死体の山が出来ると、それを陰に生き残っている者は、矢玉を避けることが出来るのだった。 その風景は茶臼山本陣の家康を激怒させた。 「誰が、寄せ手に命じたのか!?」 徳川方数万が無様にも、壕に寄せたは良いが、死体の山に隠れて、へばりついているのである。 家康の逆鱗に驚いた真田丸寄せ手の諸大名は恐々としたが、彼らにしても誰も明確に命じた訳もなく、気が付くとこの有様だったのである。 すでに、命令を出しても、直ちに行き届く状態では無かったため、寄せ手が引き上げるまでには、多大な犠牲を出した。 前田、松平の両勢は、それぞれ死者500騎(騎は士官クラスを意味する)余り、雑兵に到っては、犠牲は計り知れず、と言う惨敗ぶりであった。 寄せ手の誰もが、寄せ集めの浪人を率いた幸村旗下が、これほどの働きを見せるとは思っていなかったであろう。 まるで代々仕えた家来の如く奮迅し、真田側の損害はほとんど無いのだから。 この戦いで、「真田幸村あり」と名を後世にまで、轟かしたのである。 後の大坂夏の陣で、幸村は討ち死にするのだが、彼に魅力を感じる人は多い。それは江戸時代の世からである。 明治には『立川文庫』など、真田十勇士の講談としてで、庶民にも親しまれ続けているのである。 判官贔屓であろうが、命を掛けて、己を貫くその様に、人は憧憬の念を持つのではないだろうか。 勝者でなく、敗者。なればこそ、そこに裸の人間が、その人そのものが見え隠れするのだ。 |