−幸村と信繁− 永禄十年(1567)真田昌幸の次男として生まれる。 真田左衛門佐信繁。これが通称、真田幸村の本名である。 「幸村」は彼の持つ諱の1つであり、奇妙な事に、生前「幸村」と名乗った史料は無い。 しかし、あまりに人口に膾炙しすぎてしまったため、歴史家の間でも半ば承知の上で「幸村」で通っている名である。この項でも以下「幸村」で通させて頂く。 真田氏は、幸村の祖父の代、幸隆の代に武田信玄に仕え、その勢力と地位を築いていった。元の姓は「海野」氏であったが、信州真田領を所有するにあたって真 田姓に変えた。 幸村には、1年上の兄に信幸がいる。そして信繁という名は、父昌幸が武田信玄の弟、信繁から取ったものである。 武田信繁は父信虎から兄晴信(信玄)に変わって家督を継がせようと画策したが、これに同調せず、兄晴信に臣下として仕え、川中島で散った名将である。 彼の策定した「甲州法度之次第」は、『甲斐国分国法』として知られ、江戸時代には武士の模範として読まれた物であった。 文武に優れ、そして兄と弟であると同時に家臣としての分をわきまえ、武田の副将として手腕を発揮した名将にあやかっての名が、「信繁」であった。 −父・真田安房守昌幸− 父昌幸は幸隆の三男で、上の2人の兄、信綱、昌輝の2人がおり、武田二十四将に数えられる勇将であった。2人の兄もいるため、昌幸は武藤氏の名跡を継ぐの だが、天正三年(1575)の長篠の戦いで、兄が2人とも戦死したため、昌幸が真田家の家督を継ぐこととなる。 父昌幸は信玄存命中、小姓として側に仕え、同輩の曽根昌世と共に「儂の眼のごとし」と呼ばれる程の器量を発揮した武田家中切っての才子である。 昌幸は信濃上田領の他、上野の北条領である沼田城を攻略、これを領し真田領を広げていく。 しかし天正十年(1582)三月十一日、武田家が滅亡すると真田家の運命も、時代の激流に飲まれていった。 武田滅亡後、織田家に対して臣従し自領を守ろうとしたが、六月二日に本能寺の変により、真田領の運命も2転3転する。 織田家に臣従すると同時に、北条とも好みを通じ、自らの独立2面性を保とうとしたのだが真田を取り巻く情勢は変転を繰り返す。しかし本能寺の変以降、徳川 氏が旧武田領への侵攻を開始する。 この結果、真田領と境を接するのが、相模の北条、三河徳川、越後上杉の3大名と大国の狭間に置かれる立場になる。 昌幸はそれぞれと独自の外交を結ぶが、北条氏直と徳川家康の娘が婚姻により、両家が同盟関係になると、徳川家康より「北条へ沼田領を返すように」と昌幸に 要求を突きつけた。 それに対し昌幸は「沼田は家康から拝領したものでなく、我が手で切り取ったものである」と断固として拒否。かつて報償の約束を未だに報いない家康に対し、 昌幸は、逆に沼田をよこせと言う家康に「弓矢に代えても断る」と申し送った。 同時にに上杉に臣従を申し出、その証として幸村に真田家重臣の1人、矢沢頼幸を介添えとして付け、人質として春日山城へと差し出した。 当然、家康が怒り軍事行動に出ると見越し、上杉軍の後ろ盾を期待してのことである。 小勢の真田に侮られた家康は、鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世ら7千を持って、真田の上田城を攻めさせた。 新しく本城にと建築途中の上田城に、昌幸が本丸に籠もり、幸村の兄信幸が囮として徳川勢先手に立ちふさがった。 真田家の動員能力は2千ほど。他の支城にも兵を配置するために、上田城には千数百余りでしかなかった。他に農民を伏勢として徴収したが、戦力的には圧倒的 に劣勢である。 半数を持って囮となった信幸は、上田城本丸にまで徳川勢をおびき寄せると、徳川勢は信幸よりも、一気に城を落とそうと本丸へと攻め掛かる。 城壁を取り付き、攻め上がろうとしたその途端、城壁が崩れ落ち徳川勢は巻き込まれた。丸太や巨石など徳川方の頭に、降り注ぐと同時に、信幸率いる手勢が側 面から攻め掛かり、挟撃される形になると徳川勢は崩れて敗走を始めた。 信幸以下、追撃に追撃を重ね神川のほとりまで追いつめた所で、伏勢の農民が一斉に襲いかかる。 たちまち徳川勢は神川へ逃げようと飛び込むが、折しも増水していた神川に大勢の徳川将兵が飲み込まれた。 徳川勢の死者は、徳川方の史料では死者300、真田側では1300余り。そして真田勢の死者は40程である。この上田城の合戦では、両者の史料に隔たりは あるものの、真田側の圧勝であった。 −昌幸と秀吉− 昌幸は徳川軍を退けると、中央政界で覇権を握った羽柴秀吉(後に豊臣)の将来性を見越し、上杉に人質であった幸村を密かに呼び戻し、親子共々秀吉に面会 し、幸村はそのまま秀吉への人質として側に置かれることになる。 この一連の昌幸の見事な手腕に、徳川、上杉などは「表裏比興の者」などと、その節操の無さぶりをなじったが、これも小国ならではの為。 激動の時代を見事乗り切り、徳川の軍事行動を退け、中央への道を取り付けた昌幸の手腕は見事の一言に尽きる。 秀吉と結んだ昌幸は、上洛命令に応じない北条に対する誘い役を引き受ける。 北条がかねてより上野の完全領有を望んでいる事は周知の事実である。 秀吉の命により、名胡桃城を除く上野領を北条へ引き渡したが、北条は食指を納めてはいなかった。 北条方の沼田城代猪俣憲直は、計略でもって名胡桃を攻め落とし、喜々として喜んだ。 だが、この一連の北条の動きが、すでに天下人となった豊臣秀吉の北条征伐の絶好の口実となったのだ。 そして相模小田原攻めとなるが、この時幸村は初陣だと言われている。しかし大した戦も無く、幸村の名はまだ歴史には現れていない。 この間に、幸村は秀吉家臣の大谷吉継の娘を娶り、兄は徳川家康の重臣、徳川四天王の1人、本多忠勝の娘をそれぞれ娶っている。 これが後の兄と弟の命運を分けている。 −関ヶ原− 慶長三年(1598)に太閤秀吉が薨去すると、ポスト天下人を狙う徳川家康と、豊臣家の執政として辣腕を振るう石田三成の間での確執は表面化した。 家康は朝鮮の役での遺恨を巧みに利用し、豊臣旗下の大名を分裂させ、秀吉子飼いの加藤清正、福島正則以下の武断派に近づいた。 石田一派を蜂起させ、それを叩く事によって、天下に徳川こそ天下人に相応しいと知らしめたい家康は、有力大名に様々な難癖を付け、石田方を誘った。 まず加賀の前田利長が「家康に謀反の疑い有り」と言いがかりを付けられたが、故利家の妻であり利常の生母芳春院が自ら人質として江戸に赴き、事なきを得 た。 次に家康の標的になったのは上杉景勝である。同じ五大老の1人である景勝にも「謀反の疑い有り」として、詰問したが、上杉家の対応は前田家は違った。 有名な「直江状」にて家康に正面から反論し、国境にて待ち受けておりますので存分にどうぞ、と真っ向勝負に出たのだ。 家康はすぐさま会津上杉征伐の軍を招集。これには真田親子もそれぞれ軍を率いて従った。 しかしその征伐の途中、大坂で石田三成蜂起の報が届く。下野犬伏で真田昌幸に信幸、幸村の3人はそれぞれの道を話し合った。 昌幸は亡き太閤の恩を、そして幸村は妻の父大谷吉継が三成の親友である事から、石田方に。 信幸は妻の実父、本多忠勝が家康の譜代の臣であることから、徳川方に付くことになった。 当時も後世も、家名を残す為敵味方に分かれ、それを避難されもしたが、小勢力が生き残り続けるには、古来より行われて来たことである。 ともかく、昌幸と幸村は上田城に引き返し、軍備を整えた。 家康の基本構想としては、徳川についた豊臣恩顧の諸将に、まず中部関東と畿内を繋ぐ美濃の諸城を攻めさせ、石田方を大坂より引っ張り出す。 その後を家康は東海道を進み、さらに嫡子秀忠には主力を率いて中山道を進ませ、この主力を持って野外決戦を徳川のモノにするつもりである。 秀忠に主力を率いさせ、勝利を決めさせる事により、徳川家の次期総帥としての印象を諸大名に印象づけさせようとの思いもある。 そして何より、このタイミングで戦を起こさなければ、天下掌握の機会が無かったからである。 秀吉死語、三成官僚派と加藤・福島武断派は表だって衝突し、家康と張り合える前田利家も秀吉薨去の翌年にこの世を去った。 家中もまとまらず、そして秀吉の遺児秀頼はまだ年端もいかぬ子供である。 もし、秀頼が成人し、秀吉譲りの器量の一端でも見せようものなら、豊臣の世が2代、3代と続く事になる。今しかなかった。 この絶好の時期なればこそ、家康はなりふり構わず、戦を起こそうとしたのである。 −真田幸村の関ヶ原〜第2次上田城合戦〜− 家康は9月1日に江戸を出発。それに先だって秀忠は宇都宮から8月24日に出発した。 秀忠軍は、9月2日には信州に入り真田領へ迫った。家康は美濃で前哨戦を戦う福島正則・池田輝政等に宛て「秀忠は9月10日あたりに到着予定である」との 書状を送っている。 家康は自らは関東の大小大名を率い、秀忠には生え抜きの三河武士軍団、これに家康の懐刀本多正信、徳川四天王の1人にして徳川家中切っての戦上手・榊原康 政を付けて3万8千の大軍で美濃に向かわせた。 信州まで来て徳川軍は、徳川と遺恨の残る真田をどうするか首脳の3将が謀議した。 中山道より外れている上田城は本来なら素通りしても問題はない。しかし秀忠と本多正信は「大事な戦の前に、反徳川の急先鋒の真田昌幸を攻め下せば、士気も あがる」との主張をした。 秀忠は若く経験不足、本多正信は若い頃に一向一揆に加わり、戦も多数経験したが戦術や軍略に関しては素人である。 だからこそ家中切っての戦上手である榊原康政が付けられたのであるが、康政は真田攻めに1人反対している。 秀忠、正信も家康の育てた精鋭約4万である、たかが2、3千の上田城1つどれほどの事も無いと考えていた。 手始めに降伏の使者を送った。使者の案に相違して、昌幸は剃髪し降伏する素振りを見せたが、即答は避けた。 秀忠に復命すると、秀忠以下も昌幸の態度に安堵する。 だが、翌日使者が再び向かうと「実はまだ戦備が整って居なかったが、今は整った故、ひと合戦つかまつろうと存ずる」と丁重に降伏をはね除けた。 その報を聞いた秀忠は怒髪天を突く勢いで怒り狂う。 「さては安房守め、我を謀ったか!」 全軍に「ひと揉みに揉み潰せ!」と上田城攻めとなった。徳川方の兄真田信幸には上田城の支城を攻略させると同時に、秀忠は染屋台に本陣を布陣。 上田城を包囲してた秀忠は、まず城内から見える田んぼの稲を苅って回った。 当然、これは城兵をおびき出す策である。城兵の一部がこれを阻止しようと、撃って出る。 徳川方は、そこが狙いであった。おびき出された城兵を迎え撃ち、これが退却するところを追撃、城内へなだれ込む、こういう手はずである。 案の定、城内から撃って出た兵を、迎え撃つ。城兵の10倍に勝る大軍である。たちまち城兵は崩れて城へ向かって逃げ始めた。 城下へ迫り、一気に城を攻め落とせと、城壁に取りかかった瞬間、城門が開き幸村率いる一隊が撃って出た。 城壁を登ろうとした徳川勢の横合いを攻め、部隊を分断すると、それを突き崩した。よもや大軍を前に城門を開いて撃って出るとは思ってもおらず、不意を突か れた徳川勢は、崩れに崩れた。 その崩れて逃げる徳川勢を追い討って、幸村は遮二無二秀忠の本陣を目指した。 「わずかな敵に逃げるな!返して戦え!」 必死の叱咤により秀忠の旗本が奮戦、何とか持ちこたえると、幸村は頃合いは良し、と城内へ引き返した。 この時の引き際を『名将言行録』などは「幸村は、戯れに小鼓を打ち、高砂の謡を唄いながら」引き返した、と記されており、幸村の豪毅さと戦ぶりを伝えてい る。 地の利を得ている真田勢は、包囲する徳川勢に逆に度々奇襲を試み、攻める方が逆に敵襲に警戒するという状態に陥り、戦意は全く上がらなくなってしまった。 9月7日、ついに秀忠旗下は小諸城にまで退却。ここで戦備を再編、翌8日に中山道を急ぐことになった。 この時、追撃をするかと思われた真田昌幸・幸村親子は、秀忠の予想に反してそのまま行かせた。 昌幸にしてみれば、秀忠を十分足止めしたのである。 昌幸の読みでは、秀忠は中央での決戦には間に合わない。理由は家康が秀忠を待てないからだ。 この時点で美濃周辺に集結している軍勢は、豊臣方西軍8万。徳川方東軍7万である。家康が劣勢だが、西軍の諸将は各地で転戦、または美濃を目指して行軍中 の諸部隊がある。これら数万の軍勢に、もし大坂城にある毛利輝元の毛利勢主力3万がもし決戦場付近に集結すると、西軍は15万近くにまでふくれあがる。 東軍7万に秀忠の4万を足しても11万にしかならず、戦力差は今以上に開くのだ。 家康は西軍諸将の足止めと寝返り工作に必死である。と、同時にこれ以上待てない状況にまで「追い込まれて」いるのだ。 家康にしても、この戦は”一か八か”の賭でもあった。 そしてこの家康の心理を昌幸は正確無比に読んでいた。如何に今から急いでも秀忠の軍勢は間に合うまい。主力の欠く徳川勢相手なら、三成旗下は有利に戦え る。 三成はともかく、彼の配下島左近、蒲生郷舎らの手練れに、太閤秀吉が「100万の軍勢を指揮させたい」と言わせた男、大谷吉継がついている。 戦場は関ヶ原あたりになるだろうが、この戦場も待ち受ける西軍に有利である。 かつて明治初期、我が国の陸軍を近代化するためにプロシャ(ドイツ)より陸軍教官として招かれたメッカルは、関ヶ原の布陣図を見た瞬間、 「西軍が勝つ!」 と言い切ったのだ。100度戦えば、100度勝つとまで言われたその布陣は鶴翼に布陣されており、兵法では理想的な形であった。 秀忠は中山道を木曽路に差し掛かった辺りで、関ヶ原での決戦の結果を聞いた。 驚愕の報である。まさか主力と思っていた自分の居ない間に、決戦が行われるとは思ってもいなかったのだ。 そしてこの報は、昌幸と幸村親子をも驚かせた。三成が負けるとは思っていなかったのだ。三成には、最高の状況を作り出したと信じていたのだ。不本意なが ら、昌幸・幸村は敗者となり、罪人として紀州浅野家預かり九度山蟄居となった。 |