3.「真田幸村−弐−」



−九度山蟄居−


九度山での昌幸・幸村親子の生活は困窮した物であったと伝えられる。しばしば血縁の者に、金の無心を行っている程だ。
わずかに付き従って来た旧家臣も内職で作った紐を作り諸国へ売り歩く生活であった。この紐は「真田紐」として、重宝されたようだが、かつての大名家の生活 がこのような物とは、いささか哀れでもあろう。

慶長十六年(1611)、配流先の九度山真田庵にて父昌幸が、失意の内に亡くなった。享年六十五才であった。

昌幸は死に際、3年の内に大坂に事が起こる。その時は大坂に入って武名をあげることが出来ように・・・と言った。
そして幸村に「その時に謀(はかりごと)がある」と言うので、幸村は父に「是非に」とせがむと、「そなたには無理だ」と前置きした上で、幸村に話して聞か せた。

内容はさほどの事でも無い。その事を幸村は父に問うたが、父はこう言った。
「謀が大事なのではない。これを指揮する者こそ大事なのだ。この真田昌幸が指揮を執ると言うことが、将兵に謀が成ると信じ込ませるのだ。
 その点、そなたは将としては優れているが、無名である。それが不安に繋がり、失敗へと通じるのだ」


−九度山から大坂へ−

すでに70を越した家康は、いまだ健在の大坂城の秀頼が死後の心残りである。
慶長十九年(1614)、大坂と江戸徳川の間での戦が不可避な状況に迫ってくると、大坂側では関ヶ原の折りに出た浪人に、大坂入城を密かに呼びかけた。

後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登、仙石宗也らの歴戦の強者達が入城していく中、当然幸村にも大坂より声が掛かった。
紀州浅野家でも、真田幸村と大坂の動向には気を付けており、九度山周辺の庄屋達にも、注意する旨を通達した。

幸村は高野山より僧侶を呼び「父昌幸の法要である」と、庄屋・年寄・百姓らを一同に集まり、法要とそれに続く宴会を催した。
幸村以下、日頃の世話のお礼とばかりに、手ずから酒食を振る舞った。招かれた者どもは痛飲し、前後不覚に丸一日眠り込んでしまう。
その隙に幸村一行は、庄屋等が乗ってきた馬に自分たちが乗り、そのまま九度山を抜け、大坂に入城してしまった。

大坂入城の際の逸話が1つある。
大坂城で豊臣家の家政を取り仕切っている、大野治長宅へ1人の山伏が訪れた。
その時治長は不在であったため、家来は山伏風情を屋敷に上げるわけにもいかず、番所の脇へ「ここで殿が帰宅の際にお目に掛かるがよろしかろう」と案内し た。
そこへ若侍が10人ばかり集まり、山伏の脇差の目利きを始めた。
「貴殿の刀脇差を見せて頂きたい」
と言うので「山伏の刀は野犬を脅すためで、お目に掛けるような物ではありません。ですが、おなぐさみ程度には」と差し出した。
刀を抜いて驚いた。姿形は申し分なく、匂いと光と言い、言葉も無いほどである。
柄を外して見てみれば、太刀は正宗、脇差しは貞宗の名刀であった。
これほどの物を持つとはただ者ではない。そう思っている所へ、治長が帰宅し、家来が
「玄関にて拝謁なされよ」
と山伏を案内した。それを見た治長は、その場にて手を着きかしこまって
「近いうちにお越しになるであろうと承っておりましたが、お早々とおいでになりまして、こんなに嬉しいことはございません。早く秀頼公のお耳に入れましょ う」
と城へ使いを出させた。
この山伏こそ、真田幸村その人であった。後に幸村が治長宅を訪れるときに、
「刀の目利きは上がったかな?」
と治長の家来をからかったという。


また「真田左衛門佐、大坂入り」との報を家康が聞いた時、家康は障子に手を掛け、近習の者が驚くほど手を震わし、
「大坂に籠城したという真田は、父か子か」
と訪ねた。一同怪訝な顔をしながら、
「籠城したのは、倅の左衛門佐にございます」
そう聞いてようやく震えも止まり、家康は安堵の表情を浮かべたと言う。

これらの挿話は、真田幸村と言うよりも、父真田昌幸の名が大きいのであって、幸村自身はまだ無名と言っていいだろう。
幸村自身の実力はともかく、親の七光りの威光あっての事であった。


−大坂冬の陣−

諸説あるが、家康は大坂城攻めに20万、豊臣側も浪人衆を中心に10万余りを集めた。
浪人と言っても、後藤以下歴戦の猛将である。徳川方も数は多くとも、戦国の世を生き抜いて来たのは、藤堂高虎、伊達政宗程度の者で、あとは2世3世大名が ほとんどである。
幸村が心配するのは、大坂城の首脳陣である。総帥の豊臣秀頼は母淀君の傀儡であり、女衆に大野治長等の家老が、家康と対峙する事になるが、女衆はもとより 才知に優れていようと治長では家康には抗すべくもないのではないか。

その懸念は開戦早々に現れる。幸村以下浪人衆は、城から出ての合戦を進言したが、大坂城譜代は初めから籠城を主張。さらに豊家恩顧の大名が寝返るのを待 つ、と言うのだ。
幸村等は「籠城は後詰めあってこそ」と、京、奈良方面への出陣を進言したが、結局入れられる事はなかった。

大坂城は4里四方。1方で4kmもある巨城である。当時ヨーロッパから来た宣教師達が、自分たちの国にもこれほどの物は無い、と言った程の巨大さである。
大手門より入って、天守まで1時間以上。城内で働く侍女(メイド)の数だけで1万人。城であり数十万の都市でもあったのだ。
この巨大な城に頼る気持ちは分かるが、城は城に寄って落ちるのでなく、人に寄って落ちる。

大坂方は出城の幾つかを落とされると、さすがに浪人衆の後藤又兵衛、城方の木村重成らが討って出、今福・鴫野で徳川方東軍の上杉景勝・佐竹義宣の軍勢と合 戦になった。
この今福・鴫野の戦いは大坂冬の陣で最大の合戦となったが、勝負は着かず。
そのまま大坂城は東軍に一重二重と囲まれることになる。

この時幸村が大坂城南門外に出城を築き、そこに籠もり、奮戦したのは「1.真田丸」にて記した通り。

後藤・真田の奮戦は浪人衆の武名を上げたが、特に幸村は、父昌幸の威光のみにあらず、との面目躍如であったろう。
真田幸村これにあり、と鳴り響き、幸村の元には是非配下にと浪人が慕い集まった。

家康は大坂城はさすがに難攻不落、安々とは落ちぬと踏んで、大坂城内へ大筒を撃ち込み、城外より城内へ穴を掘ったりと、城方への圧力を掛けていった。
城の首脳陣、特に女衆が我慢の限界と来たところで、家康は和睦を結んだ。

当然、謀略である。

和睦の条件として、城の「外堀を埋める」としたが、東軍はどんどん他の壕をも埋めて回る。抗議すると「外堀と総堀を聞き間違えたのであろう」と、のらりく らりとかわす。
こうして大坂落城への準備は着々と進められていった。


−大坂夏の陣−

表面上だけの和睦とは言え、和睦は和睦。敵味方に別れていた者も会うに支障はなかった。
その間に幸村には家康の手の者から、再三誘いの手があったが全て断った。

越前の徳川忠直の使い番に原隼人佐貞胤という、幸村旧知の友人がおり、和睦の空気もいよいよ怪しくなってきた頃、幸村は彼を自分の屋敷へ招いた。
久しく杯を交わすと、幸村は彼にこう言った。

「このたび討ち死にすべき身であったが、御和睦によって今日まで生きながらえ、再びお目にかかれたことは喜びに耐えない。
 拙者は不肖の身ではあるが、一方の大将を引き受けしたと言うことは、今生の名誉で、まことに死後の思い出となると存ずる。
 しかし、この御和睦も一時的なものであるから、ついにはまたご合戦になると存ずる。我々親子は、恐らくこの1、2年のうちに討ち死にすると覚悟を決めて いる。
 これは最後の晴れの場だ。あれをご覧下されい」

と父昌幸より譲り受けた鹿の抱き角を打った兜と甲冑を披露して、「もしこの兜を付けた首をご覧になったら、幸村の首と思って回向して下され」と、さらには 自分の馬と馬具も披見して見せ、互いに涙して語り合った。

原隼人は帰って主君忠直に復命。そして忠直から家康に、そして各大名と伝わって行った。
付け加えると、原隼人は幸村との友誼は友誼、しかし徳川の家臣としての筋は筋であり、これは避難すべきことではない。

再び東西開戦となると、大坂城を裸城とされた大坂方は、城から討って出た。
大和路には後藤又兵衛率いる手勢が。摂津方面には長宗我部盛親、木村重成率いる軍勢がそれぞれ城を出た。
摂津方面の隊は八尾、若江方面へ出て、東軍と戦った。
大和路の後藤隊はわずか2800。これには諸説あり、後藤隊が半ば独断で城を出て、幸村がその後を追いかけたと言う説と。
東軍が要害を抑えようと進軍してきたため、それに遅れまじと、後詰めが整うのを待たずに城を出た、と言う説である。

恐らくは死に場所を求めた又兵衛が、戦機を逃すまじと勢い飛び出したのであろう。


−道明寺の戦い−

こうして元和元年(1615)5月6日、道明寺での戦いは始まった。
東軍は道明寺水野勝成を先手の大将に、本多忠政、松平忠明、伊達政宗、松平忠輝等、総勢3万を越える大軍である。
これに対し又兵衛は2800の手勢を2手に分け、小松山に登り東軍を待ちかまえた。
水野隊は又兵衛を見つけると、激しく銃撃を掛けたが、又兵衛は猛然と突撃。
水野隊は押しに押しまくられ、東軍先手は第3陣あたりまで崩れた。
伊達政宗率いる1万を越える軍勢にも、又兵衛は奮戦し、自ら槍にかけたのも、7、80騎と言われている。
一隊が敵の正面にかかると、もう一隊は側面を突き、10倍に当たる東軍の中を縦横無尽に暴れ回った。

この時、後続の幸村が濃霧で到着が遅れていなければ、戦局はまた別な物になっていただろう。それほど又兵衛の奮戦ぶりは凄まじかった。

伊達勢の鉄砲隊の一斉攻撃を受けた又兵衛は、腰に弾を喰らい、その場で腹を切って戦場の露と消えた。
又兵衛の部下が泣く泣く首を持って、近くの畑に隠したが、これは東軍にすぐに発見された。


又兵衛討ち死にの報を聞いた幸村は驚愕した。
「我らが遅れたばかりに・・・」
幸村は又兵衛を倒して意気の上がる東軍と対峙する。後藤又兵衛の名は、真田幸の名に勝るとも劣らないだけの名声があったのだ。その又兵衛を倒したからに は、次は真田と、又兵衛を倒した伊達政宗は息巻いた。

政宗が奥州で育てた伊達軍団相手に、幸村率いる赤備えの真田勢は、伊達の先手を突き崩した。
伊達軍は「伊達に片倉あり」と言われ鬼小十郎の異名をとる片倉重綱率いる”騎馬鉄砲隊”を繰り出して真田勢と矛を交える。
この時期、世界史的に見ても「騎馬鉄砲隊」は希有な存在である。当時の火縄銃は先込め式、銃身の先から弾を入れる方式なので銃身を下に向けると、弾が落ち てしまう。
しかも当時の命中精度では、揺れる馬上では撃つことは出来ても、命中させることは至難の業であった。
だが、伊達の片倉隊は猛訓練によって百発百中の強さを誇った。

幸村はそれを見ると、すぐさま兵を伏せさせ、槍も兜も外すように命じた。
騎馬鉄砲勢が、近づくと
「兜をつけよ」
と、一斉に兜を着けさせる。さらに間近に近づくと
「槍を持て」
と持つと、不安な気持ちは、その度に消え、不思議と力が湧きあがって来た。
片倉隊が迫った刹那、地面より一斉に槍ぶすまが飛び出ると、片倉隊は突き崩された。
伊達勢も必死に攻めたが、幸村自身は矢玉の雨の中に身を晒し、
「踏み堪えよ!片足たりとも退くな!かかれかかれーぇ!」
と叱咤して回った為に、真田勢はすさまじく奮戦を繰り広げ、片倉隊は全滅に近い打撃を被り潰走、伊達勢は総崩れとなった。

大和路方面の東軍を潰走させた幸村は、このまま家康にまで、と意気をあげていたが、その時に急報が彼に届いた。
「なに!?木村殿が討ち死にしたと!」
その報は若江口にて激戦を繰り広げていた木村重成が戦死。八尾口にて戦っていた長宗我部盛親も敗退して兵を退いたと言うのだ。

この若江口、八尾の戦いも奇妙であった。大坂勢は優勢に勝ち戦であったのだが、木村勢は突出し、孤立した所を責め立てられ乱戦の中、木村重成は戦死したの だ。
長宗我部勢も東軍の藤堂高虎を破るなどしており優勢だったのだが、大坂方は各戦場の連携が整っておらず、奇しくも敗退することになった。
長宗我部盛親は、木村勢が退き始めると、敵を追い返し素早く兵をまとめて城へ返した。

幸村もこのままでは敵中に孤立するため、殿(しんがり:最後尾)を務めて引き上げていった。


−決戦大坂城−

翌5月6日。大坂城外にて東西両軍が対峙した。
大坂城天王寺口に家康本陣。岡山口には秀忠旗下が受け持った。
幸村は大野治長に献策し、
「この期に及んで上様(秀頼)ご出馬、是非に。なればお味方は士気もあがり、さすれば大御所の首も取れよう。
 自分が関東の諸軍を引き寄せるから、明石全登にキリシタンを率いさせ合図と共に、家康本陣に背後より突撃させよ。
 私が正面、明石掃部が背後より攻めれば成功いたす」
とすると、さすがに最後の一戦か治長も「必ず」と約束し、明石全登にはキリシタン武士300騎からなる騎馬隊を率いて後方に待機させた。
死を恐れないキリシタンならば、必殺を覚悟に家康の本陣へも切り崩せると読んだのだ。

毛利勝永に共同戦線を約束し、極力敵を引きつけてから一斉に襲いかかる。
敵の前衛が崩れた隙を縫って、家康にまで迫ろう。そう幸村は作戦を立てたが、敵を引きつける間に毛利勢より歓声と銃声が聞こえてきた。
「烏合の衆の悲しさよ」
味方はほとんど浪人衆で、寄せ集めの軍にすぎない。大軍である東軍が迫るのを見て、我慢できなくなった兵が、命令を待てなかったのだ。
勝永を責める事は出来なかった。
幸村はまだ秀頼が出馬していないのを見て、傍らの一子大助に向かい。
「この上は致し方ない。そなたは城へ参って、秀頼君のご出馬を願い立てよ」
と言うと大助は
「嫌でござる。それがし最後まで父上のお側にて」
父幸村と共に死ぬことを望んだ大助に幸村は
「ワシはまだ勝つことを捨ててはおらぬ」
と、大助を城へ走らせた。父の勝利への執念は本物であり、その可能性に一縷の光明を見いだす事は出来るため、大助は馬を走らせた。
だが、大助にはわかっていた。父上が死ぬことが。城へ向かう間中、溢れる涙を止める術を持っていなかった。

そしてついに最後まで、秀頼が城から出ることは無かった。

東軍各軍には、幸村の出で立ちが伝わっていた。大坂側で一番の強敵は真田幸村である。最も恐れるべき、そして討ち取れば最大の手柄となる。
原隼人の伝えた幸村の出で立ちは、東軍の目標となった。
数千、数万の人馬が乱れ狂う戦場である。鎧兜に身を包んだ人の顔などはっきりと見えはしない。
そこを幸村は、同じ格好の鎧武者を数人用意して、自らの影武者として東軍を混乱させた。

東軍総帥の家康の元には各方面から続々と、真田幸村出現の報が届いた。
しかし幸村自身が率いる部隊は、東軍の陣を次々と突破し、家康の元へと攻めに攻め続けた。
狂乱怒濤の猛攻は、数に於いて遙かに勝る東軍の諸大名を蹴散らし、ついには家康の本隊にまで迫った。
家康の本隊にも切り込み、家康の旗本・近習に到るまで幸村の防戦に必死になった。

家康の周りに小姓が1人になったのが3度。
腹心の本多正純が家康の本陣の幔幕を一歩出た所、ほんの数間の所に真田六文銭の旗がひしめいていた。
大久保彦左衛門は彼の著書『三河物語』の中で、幸村の鋭鋒があまりに凄まじく、本陣にまで切り込まれた為、家康は錯乱し、
「もう駄目じゃ、腹を切る。腹を切る」
と泣き喚くのを、必死に押しとどめた、と記されている。
これは当時の宣教師の報告の中にも記されており、その中には家康が切腹寸前の様子だけでなく、秀忠は味方が次々と敗走してくるので、自らも逃げ支度をしよ うとし、それを周囲が押しとどめた様子も書かれている。

豊臣、と言うより真田寄りの史料などでは、家康・秀忠親子は本陣を捨てて逃げ、農家に隠れていた、とまで書かれている物もある。
もちろん、家康・秀忠は別な陣にいるため、史料としての信頼性は不確かではあるが、それほどまで真田幸村が活躍したのだ、と言う事を後世に伝えようとした のではないだろうか。

幸村は正に家康の首に手を掛けた。3度も家康の本陣に足を踏み入れ、家康の心胆寒からしめ、死を覚悟させたのだ。
その戦いぶりは敵方である島津家臣が国元へ宛てた書中に
「真田日本一の兵(つわもの)。いにしえよりの物語にもこれなき由。
 惣別これのみ申す事に候」
と敵である真田幸村の戦ぶりを絶賛している。

これらの幸村の攻めに呼応して明石全登が家康本陣に、背後より突貫していれば家康は間違いなく死んでいただろう。だが、不可解なことに、彼は戦に加わら ず、また戦死もせず、行方不明となっている。


−幸村の最後−

だが今一歩及ばず、3度目の突撃を終えた幸村の傍らには1人の部下もいなかった。
そのころ戦の要である茶臼山が越前松平勢に攻め落とされ、戦いの趨勢は徐々に大坂方不利になっていった。

「これで落ちたな・・・」
1人満身創痍ながら人気の無くなった神社を、幸村は歩いていた。朝から戦いずくめである。戦場で馬を乗り換えたことも、一度や二度では無い。
水を求めて境内をさまよっていたのだが、そこへ物陰から、1人の若武者が飛び出てきた。
「その赤鎧、真田の者と見た!」
「そちの名は?」
「越前の士、西尾仁左衛門」
見るとまだ若輩である。年齢からして初陣か、まださほど戦の経験もないのだろう。顔は戦場の気に飲まれて、上気している。
「ワシは真田幸村だ。討ち取って手柄とせよ」
「さ、さなだ・・・!!」
「手向かいはせぬ。よく狙うが良い」
自ら喉を見せ、仁左衛門に向けてやると、「御免!」と幸村に槍を突き出した。


真田幸村享年四十九。


一子大助は大坂城本丸にて、幸村戦死の報を聞くと、膝立を着けて腹を切ろうとした。
老兵がそれを見とがめ、
「腹を召す時は、膝立も外すのが作法ですぞ」
と言うと
「大将は着けたまま腹を切ると聞き及んでいます」
と見事腹を切り果てたと言う。この時真田大助十六才(一説に十三)。


−真田六文銭−

その言語に絶する活躍に、影武者を用いた戦ぶりに、後世「真田十勇士」の素地があったのだろう。

真田六文銭の、六文は三途の川の渡し賃。いつ死んでも良いように、戦場で儚く散っても彼岸へ迷わず行けるよう。
その心がけは、死に対する畏れや、生に対する執着ではない。
それらに惑わされることなく、己らしく、己の意地を最後まで貫く為の物。

そして幸村は、真田六文銭を戦国の最後の風として、強烈に吹き抜け、人々の心に強く残ったのである。




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