6.忍者・NINJYA

− 忍者・NINJYA−

海外産のゲーム、古くはWIZARDRYに始まり、ゲーム以外にも海外に「忍者」は認知されている。
ゲームのキャラクター、格闘ゲームに始まりRPG等々、すでに定着しつつある「職業」としての忍者が数多にあるが、そもそも「忍者」とはなんだろう?

決して忍者は架空の存在ではない。実在した存在である。それが如何に存在していたのか、今回は、簡単に忍者の実態を紹介してみようと思う。


−しのぶ者−

忍者全盛と言えば、戦国時代が思い浮かばれるが、その歴史は古い。
14世紀の足利幕府創世の軍記物語である『太平記』に、暗殺を行った場面など「細人」すなわち忍の仕業として、記されている。

一言に「忍者」と言うが、実際当時の呼び方は様々である。
一般に関東では「素破(すっぱ)」、関西では「乱破(らっぱ)」と呼ばれていた。
他にも「草」「かがり」などと呼び方は様々である。

忍術、忍者の地は全国に数あれど、伊賀・甲賀の地は最も有名な所であろう。
この地は応仁の乱以降、約100年間領土争いの闕所となっており、この外界から閉ざされた地の土豪こそが忍者である。
小さな山間での独特の奇襲戦法、個人技こそが忍術の発祥であり、発展の理由である。元々当時の剣術の一部が派生した物とも言われるが、それらも含めて、 ごった煮の中から精錬された物が忍術であろう。

忍者の仕事は大別して2つある。
1.諜報活動
2.奇襲作戦

1は平時、戦時での活動で、忍者の主たる働きだ。戦時は戦場での諜報や、戦場以外でも様々に行われる。
ちょうど、今のFBIやCIAなどの捜査、情報機関が行っているもの、そのハシリであると言ってよい。

2は戦場そのものの働きだ。数の大小はある物の、忍者がある程度の数で敵への奇襲攻撃をする事もある。

1つの例は天文十年(1546)に行われた武蔵川越城の戦いだ。

相模小田原の北条氏康が、扇谷上杉家の武蔵国川越城を手に入れた。
しかし、扇谷上杉家の当主朝定は山内上杉、古河公方である足利晴氏らと連合して川越城を囲んだ。
北条家の関東進出を阻もうと、3家連合で8万の大軍である。川越に籠もるのは名将北条綱成だが、寡兵でもあり到底敵対しえない数である。
すぐに北条家当主の氏康が援軍を率いて救援に向かうが、その数は8千であった。

氏康は謀略と奇襲で持って、この関東連合軍を撃破し、見事川越城を守りきる。
この時、箱根を根城とする風魔忍軍の騎馬隊数百騎が後方攪乱を行ったのだ。
影の存在である忍にしては珍しいほどの数であり、かつ忍の騎馬隊による集団戦だが、これも歴史に垣間見る忍者の存在である。


戦乱の世が終わり、徳川家が幕府が開かれると、忍者・忍術も衰退するが、幕府そのものも忍者を常時雇用していた。
開闢当初は伊賀忍者だけでも200人。3代家光の時代には増員されて500人が幕府に雇用されている。
江戸城の半蔵門は高名な伊賀忍である服部半蔵正成の名を取り、その門を守る為に伊賀組200名が住居した事から、付けられた名である。
今の青山伊賀町の語源である。
同様に甲賀町は篠山里兵衛がその地に甲賀組を率いて在住した為、その名が付いた。



−上忍と忍者の実態−

忍と言うのは裏の仕事、名が知れるのはあまり仕事の性格上、良いとは言えない。
ただ、上忍や地位の高い忍は実務として、忍の仕事に直接関わることは少ないので、名は現代にまで知れ渡っている。

伊賀の服部半蔵は徳川家康に早くから仕えて、「鬼半蔵」の異名を取っている。
彼は伊賀の上忍、すなわち土豪であり、わかりやすく言えば大名小名クラスの人物である。
小なりとは言え、一族郎党を率いる身であるので、まかり間違っても忍装束を着ての戦いはあり得ない。

格好は武士と同じである。これが上忍である。
「上忍」は宗家であり、その下に幹部がいる。これが「中忍」と呼ばれる。一般の忍は「下忍」と呼ばれ、「上忍」に統括されている。
これが忍の形である。

他に上忍と言えば、藤林長門守、百地三太夫などである。箱根の風魔も名は知れ上忍であろうが、極めて実態が掴みづらく不明な点が多いのでここでは保留させ てもらおう。

一般の忍者と言っても、在郷の侍、土豪らと変わることなく、戦時以外は自分の耕地で農業に従事しているのだ。
忍、上にあげた上忍を除けば、一般の忍は名もない忍と変わらない。しかし、そのような忍でも、当世や後世に名高い忍は存在した。



−有名忍者・虚像と実像−

飛加藤と呼ばれる忍がいた。越後に上杉謙信が健在であった頃の話である。
城下で大牛一頭を引き出し、大勢の目の前で飛加藤はその牛を、一息に飲み込んでしまった。
見物人は肝を潰してしまったが、それを松の木に登って見ていた一人が、
「うそじゃうそじゃ、ここから見ると牛の背中に乗っただけじゃ」
とからかった。飛加藤はむっとして、草を取り、扇で仰ぐと、その草からたちまちにツルが伸び、見る見る花が咲いて、夕顔となり、実を結んだのだ。
見物人は呆気にとられていると、飛加藤は小太刀でもって、その実を切り取った。
と、同時に鳶加藤をからかった松の木の上の男の首が、どさっと落ちて来たから、見物人は驚いて逃げ出してしまう。

この噂を耳にした謙信は直江山城に命じて召し出した。
直江は飛加藤の実力を確かめるべく、自分の屋敷の帳台にある長刀を取ってくるように命じた。
もちろん、ただ取るだけでなく、盗む、という意味である。
直江家では警戒を厳にして、猪を食い殺した猛犬村雨まで動員して、屋敷の警備に当たっていた。
この警備の中、飛加藤は難なく長刀と、おまけに侍女の1人を背負って帰った。

その実力に驚いた謙信は同時に身中に彼を置く事を危惧し、彼を除こうとした。
それを察知した飛加藤は逃げようとしたが、警備が厳しく逃げられない。
そこで飛加藤は、皆の前で、
「さあさあ、皆さん。面白いものをごらんにいれよう」
そう言うと銚子を一対、前にした。すると銚子の口から三寸ぐらいの人形が次々と、30ばかり、ぞろぞろ出そろって、それらが踊り始めた。
これは奇妙、玄妙と驚いていると、その呆気の隙に、飛加藤は逃げ去ってしまう。

次に武田家に仕官しようとしたが、武田家でも同様に飛加藤を恐れ、こっそり手を回して殺したと言う話だ。


他にも世に名高い忍はあるが、人に名を知られているのは、架空の人物が多い。
上にも書いたが、忍者と言う性格上、その存在と名が知られる事自体、希である。
後世、架空の人物としての忍は、スーパーマンとして描かれる事が多い。真田十勇士に出てくる、猿飛佐助などはその代表であろう。
実在の人物をモデルにした者もあり、その虚実は様々である。
京の街を騒がせた石川五右衛門は、豊臣秀吉の命で捕らえられ、釜ゆでにて処刑された実在の人物だが、彼をモデルに講談や説話が作られたりしている。



−忍者と忍術−

瞬時に姿を消し、印を結んで術を唱えてオオガマを呼び出し、口から火を噴く。
古典忍学にあっては、このような事は問題外である。忍術の正統は合理、科学的な兵法であり、迷信、呪術とはほど遠い物である。
忍術の大書『万川集海』にも、印を結んで忍術を行うなどとは一切記されていない。

ただ口伝で、「アンアニチマリシエイソワカ」と唱える法があるが、これは単に精神統一の法である。今でもお年寄りなどが、「なんまいだなんまいだ」と唱え るのと同じである。
江戸中期以降、忍術には呪術的な要素が加味されて行くのだが、これは多分に講談、歌舞伎などに描かれる忍者によるものだ。

ここでは、『正忍記』に記されている忍術の基本10法を簡単に記してみよう。

 1.音声忍
  歌曲音曲、声色や方言を習熟して、相手を信頼させ油断させる。
 2.順忍
  「常に人に順う」と言う、無為無策を策とする法。
 3.無生法忍
  乱れて利を取る。火事場ドロの如く、混乱を起こしその中で目的を果たす。
 4.如幻忍
  疾風迅雷の早業で事を成す。
 5.如影忍
  相手に影の如く伴う。尾行の法である。
 6.如焔忍
  人心の弛緩を利用して、隙を突き、方策をめぐらす。
 7.恕夢忍
  敵の寝ている時、夜陰に乗じて事を成す。
 8.恕響忍
  立地条件、地の利を勘案して、策を立てる。
 9.如化忍
  人の心の動きに順い、臨機応変に策を練る。
10.如空忍
  空つまりは無と化し、相手にその存在を気づかれずに行う。


また、忍術心得や忍としての教訓を記した、和歌がある。これを「忍歌」と言う。
忍者をモチーフにした独特の世界観の漫画『NARUTO』(岸本斉史著)の6巻に出てくる、忍歌「忍機」も『万川集海』に出てくる忍歌の1つである。
忍歌の1つを記してみよう。

・忍勇
「忍ぶには危きなきぞよかるべし 前疑いは臆病のわざ
 しのびには習の道は多けれど まず第一に敵に近づけ
 驚ろかす敵のしかたに騒がなば 忍ぶ心のあらわれぞする」



−現代の忍者?−

至極簡単にだが、忍者とはいかなるものか、紹介させて頂いた。
映画、漫画、アニメ、小説、ゲームと様々な所で忍者は存在しているが、その虚実を見極めるのは難しい。

現代に忍者は存在するのだろうか?

始めに上げた、FBIやCIAなどの世界の情報機関の活動こそ、それではないだろうか?
そして日本には存在しないのだろうか。筆者はその存在を知らないが、今も影で存在しているのかも知れない。



○参考文献
山口正之『忍者の生活』雄山閣出版1994
小和田哲夫『戦国合戦事典』PHP研究所 1996
岸本斉史『NARUTO 巻ノ六』集英社 2001



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