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一部漢字に表記外字があるので、了承して下さい。文字化けなどはご一報を 諸葛亮、字(あざな)を孔明。昔の中国では親や親しい人、 上司など以外は名前を直接呼ぶのは礼に欠くとの理由で、字や官職で呼んでいた。諸葛が姓、亮が名になる。 孔明の場合、後に蜀漢帝国の丞相になるので、諸葛丞相、も しくは諸葛閣下が呼び方としては正しい。 しかし、ここでは通俗に習って「孔明」で通すことにする。 三国志をモチーフにしたアクションゲームやシミュレーショ ンゲーム、新しい三国志マンガなどで、孔明は必ず登場する。 武力自慢の豪傑に並んで、その知謀と知略政略の限りを尽く す数々の軍師、それらの中での孔明のスーパー軍師ぶりは際立っている。 いや、歴史書である『正史三国志』をモチーフに元末明初に 羅貫中が『三国志演義』を小説として成立した当初から、孔明はスーパー軍師なのだ。 史実の孔明とそれらの作られた孔明。虚実の入り交じった孔 明像、それらを明らかにして実際の孔明と、彼のどこがスーパー軍師だったのかを見てみよう。 ○孔明の生い立ち− 徐州瑯邪郡(ろうやぐん)の人である。幼い頃に父を亡く し、戦乱に巻き込まれ、父の変わりに保護してくれた、叔父の諸葛玄も戦乱で亡くなった。 孔明の兄、諸葛瑾は母を連れて、当時新興勢力として伸びて いた江東の孫策の元へと安定を求めて行った。 そのまま荊州にあった孔明は、そのまま弟の均と居残って戦 乱を余所に、農耕や詩を読んで暮らしていた。 当時荊州には中原の戦乱を逃れて、多数の人材が流入してい たのであるが、才人と呼ばれる彼らと孔明は交わりを結ぶことは無かった。 ただ、徐元直(徐庶)・石広元・猛公威らとは親交を深め た。そして自らを楽毅・管仲を擬していた。 春秋戦国の名将・名宰相の両人に、心酔し憧れていたのだっ た。 ○孔明の出盧と玄徳− 徐庶より孔明の存在を聞き、三顧の礼によって劉備は孔明を 求め、孔明もそれに応じた。 劉備、字を玄徳。漢帝国の流れを組むと自称しており、乱世 の英雄の1人である。魏の国を興したもう1人の英雄曹操が、彼の才覚と人望をライバル視する程の男だ。 しかし劉備は常に時を得ず、着実に自らの基盤を固める曹操 に対して、今だ根拠地を持たぬ宿無し鳥であった。 武勇に秀でた豪傑は多くいるが、戦略を定めて政戦双方に秀 でた補佐役が居ない。劉備はそれを痛感し、望んで徐庶を得たが、曹操旗下の策士程cの計略によって、曹操の元へ彼は去ってしまった。 しかし、その徐庶の導きによって、劉備は孔明に巡り会い、 彼を得る。 当時の劉備の状況はこうだ。 同じ一族である荊州の劉表の庇護の元にあるが、彼の後妻の 弟蔡瑁が姉の産んだ劉jに荊州を継がせ、荊州を自らの手中に入れようと画策していた。 当の劉表は高齢と病がちなために先が見えていた。必然、劉 備は前妻の子劉gと結んでこれと対抗した。 しかし、中原を抑える曹操は、彼の最大の敵であった袁紹率 いる袁一族を滅ぼし北方を完全制圧すると、南方制圧への野心を抱いていたのだ。 内憂外患、劉備の状況はまさにその通りだった。 この状況下で孔明は劉備を補佐することになった。劉備が孔 明に心酔すること日々増しており、義兄弟の関羽・張飛らが「いきすぎではないか」と諫言するほどであった。 何せ、孔明はこの時まだ何の実績も無い、ただの一介の書生 上がりなのだ。孔明自身が認めた人以外との交わりも無く、他人からの評価はほぼゼロである。 その孔明が彼の才覚を示す時が、早速やってくる。 荊州主劉表が病気で亡くなった。曹操はこれを機に大軍で もって南方攻略に乗り出した。 『演義』の記述ならば、5軍団50万の大軍だ。もちろん小 説の話で、現実問題当時の人口と経済を考えれば、2〜30万が限度だろう。そしてその軍を展開する範囲は、荊州から徐州までおよそ700km以上にも及 ぶ。 荊州方面に向けられたのは10〜20万弱と言ったところだ ろう。 この数字は当時数千ないし1万弱の戦力しか有していない劉 備にとっては驚異だ。しかも劉備にとって最悪なことに、劉表亡き後、荊州は蔡瑁一派が劉jを後継者の立場につけ、曹操に帰順の意を自ら申し出たのだ。 元より孔明は劉備に三顧の礼で持って迎えられた時、劉備に こう言っている。 「荊州は、北方は漢水・沔水(べんすい)にまたがり、経済 的利益は南海までに達し、東方は呉会につらなり、西方は巴・蜀に通じていて、これこそ武力を役立てるべき国であるのに、領主はとても持ちこたえることがで きません。 これこそ天が将軍にご用に供している土地と言えましょう が、将軍にはその意志がおありですか。 益州は、堅固な要塞の地であり、豊かな平野が千里も広が る天の庫とも言い得るところであって、高祖はこれを基に帝業を完成しました。劉璋は暗愚で、張魯を北にひかえており、人口は多く国は豊かであるにもかかわ らず、福祉に心を砕かないので、知能ある人士は明君を得ることを願っています」 つまり孔明は劉備に荊州を得て、それを根拠地に益州を奪 い、これを併せて曹操に対抗せよ、もしくはそれしか対抗手段が無いと説いた。 劉表も劉gも、共に劉備に好意を抱いている。『演義』の読 者ならば思ったはずだ、孔明の提言通りに荊州を主体的に継承し、それを得、曹操と対抗するべきだ、と。 『演義』を通じてだが、劉備はカリスマ性に富むが、どこか 人の好いところがあって、甘い面が目立つ男に描かれている。時に優柔不断であるが、実際の彼はどうだろう?果たしてそうか。 三国時代に覇を唱えて魏王朝を築いた曹操は、次々に彼の前 に立ちはだかる敵を倒してきた。 董卓に対抗し、その後を継いだ李傕(りかく)・郭(かく し)を葬り、袁術、呂布、袁紹、張繍等を倒してその覇権を確立させた。 単純にその勢力をみれば、それらのどれよりも劉備は脆弱で ある。にもかかわらず、劉備は今だに健在であり、曹操はその才と人望を脅威に感じていた。 劉備はそれらの攻防の中、しぶとく生き残り、曹操に幾度と なく彼、もしくは彼の部下と戦い、破れてもなお生き残ったのだ。 戦乱の中を生き抜いた、紛う事なきリアリストであり、英雄 の1人であることは間違いない。 劉備は劉備なりに、彼の説に賛同するものの、荊州の跡を劉 表から継承することが可能だろうか?と考えた。 もし、劉備が荊州を継いでも、劉jを戴く蔡瑁ら一派がい る。蔡瑁一派は荊州で勢力を持っており、決して一丸となって曹操に対抗しうることは難しい、と見たのだ。 孔明の言うことは理想的だが、それを実現するには、今は時 期尚早と劉備は考えた。荊州に劉備の名はまだ浅く、支持を得られなければ、自らの首を絞めることになるからだ。 事実、後年彼は荊州を得、そこから益州に伸びて行く。 孔明の構想は他に類を見ないほどで、他に同様の構想を持っ ていたのは、呉の甘寧が孫権に下った時語った構想がこれと同様で、魯粛も呉と荊州を合わせ得て曹操に対抗すべき、との説はこれに近い。 甘寧・魯粛の両人は孫権に説いたものだが、孫権はすでに父 と兄の築いた根拠地江東がある。その孫権も後年に荊州攻略を考え、食指を伸ばすが一朝には行かない。 根拠地も無く勢力も微力な劉備ならなおのこと困難だろう。 劉備は孔明の構想力、政治的可能性をかったが、現実及び実 現面での能力を、この時点でどこまで評価していたかは疑問だ。 荊州の劉jが降った後、曹操の次の目的は劉備一党の掃討を 行うことであった。曹操は荊州を攻める軍勢で劉備を追った。 劉備を慕って大勢の領民が付き従った。足手まといな為に置 いていけ、との進言もあったが、劉備はそれを退ける。 結果、足並みは遅くなり遂に長阪で曹軍先鋒に追いつかれ た。張飛、趙雲等の奮戦によって虎口を脱し、当初荊州の要害江陵を目指したが、曹操の動きは素早く荊州の要所を押さえたため、劉備一党は長江の呉寄りであ る夏口に逃れた。 夏口の劉備は江夏の劉gと共に曹操に抗した。しかし、その 程度では曹操に拮抗すべくもない。 ここで、孔明最大にして最高の舞台がやってくる。 ○孔明と赤壁の戦い− 敗残の軍と評しても当事者たちは間違いとは言い切れないだ ろう。 劉備は江東の孫権に特使を派遣する。他の誰でもない諸葛 亮、すなわち孔明その人である。 江東は曹操の南下に対して主戦論と降伏論両派が激論を交わ し、まだ結論は出ていなかった。劉備はこの江東の孫権と同盟を結び、これと共に曹操に対抗しようと考えたのだ。 まだ実績もゼロの孔明を、この重要な局面で外交特使として 起用し、全権代理として孫権の元へ送り込んだのだ。劉備の人材を用いる妙と大胆さは、さすがと言わざるを得ない。 孫権配下の諸将、諸官は無名の孔明を侮り、降伏論者等は孔 明と論じて外交上の主戦論を封じようとした。 孔明はこれらの論戦を抑え、江東の軍事責任者である周喩 (しゅうゆ)に働きかけ、ついには孫権を立ち上がらせた。 無名で実績の無い孔明が、劉備の期待通りに応え、孫権劉備 同盟を結ぶことに成功したのだ。 最も難関な局面を切り抜けることに成功した。それどころ か、敗残の一軍勢を、今や曹操と対抗できる唯一の存在である江東と同格にまで引き上げたのである。 孔明の外交・政治手腕は、見事の一言に尽きる。 孫権は周喩を総司令に任じて、曹操に対抗させた。曹操率い る主力は降伏した荊州の軍勢を加えて、長江を挟んだ赤壁で周喩・劉備軍と対峙した。 荊州の軍勢を加え、30万近くに膨れあがった曹軍に対し て、周喩は3万程度の戦力であった。 『演義』では孔明が東風を呼び、江東の周喩が曹操に勝てる 重要な要因になった、と描かれている。 が、これは当然ながら小説としての演出であって、実際に曹 軍を破ったのは周喩の才と江東の水軍の力であった。 遠征軍の疲弊と、当時曹操陣営に蔓延していた疫病に加え、 周喩・黄蓋(こうがい)の火計により曹操は赤壁で大敗した。 曹操は、劉備・周喩の追撃を辛くも逃れて、一命を取り留め たが、荊州からは撤退し各戦線も後退せざるを得なくなった。 曹操が敗退した後、劉備は孫権・周喩の援助を得て、曹操敗 退後の荊州を奪い、名実共に曹操に対抗する勢力になった。 『演義』に見えるような孔明のスーパー軍師ぶりが描かれて いるが、現実には孔明の戦術面での功績は皆無だろう。主決戦場であった赤壁で曹操が破れて後の、曹操追撃戦においても、作戦を指揮したのは劉備とその旗下 関羽・張飛・趙雲である。 だが、流浪の軍勢であった劉備に孫権と同盟を結ばせる事に 成功、曹操を退けると孫権との同盟をバックに荊州を取らせた功績は、ひとえに孔明の政治手腕である。 歴史の表舞台に初めて出た時が、孔明にとって最高の舞台に なったのだ。 ○劉備の死と孔明の限界− 赤壁の戦いの後、曹操の魏と、南方の江東の孫権及び荊州の 劉備等とのミリタリーバランスに大きな変化が生じた。 曹操の主力部隊が、曹操軍に蔓延していた疫病と、周喩の火 計によって壊滅的なダメージを受け、軍事的な空白地帯が生じたのだ。 その間隙を縫って、劉備は荊州を領した後、次に孔明が言っ た巴蜀の地を目指した。蜀(当時は益州)は、益州の牧劉璋が治めていたが、孔明が言うように暗愚で、益州では賢君を望む者も少なからずいたのだ。 彼らと密かに通じ、劉備は漢中の張魯を防ぎ、同じ一族でも ある劉璋を助ける名目で荊州より兵を向けた。 この時、孔明は荊州で留守を関羽等と共に守っている。出征 に際して劉備の側にて補佐するのは、孔明と並び称される龐統(ほうとう・字を士元)が受け持った。 劉備が何故孔明を連れて行かなかったのか? 答えは簡単である。彼に軍才が無かったからだ。 今回、劉璋を助けると銘打ってはいるものの、その実は益州 併呑が目的である。事実、益州に入って間もなく、劉璋との間に戦端が開かれている。 今回は遠征軍であり戦闘が目的なのだ。戦術面及び謀略面に おける才覚が、劉備の側に必要であり、龐統にはそれが在ったからこそ、軍師として付き従ったのだ。 孔明は荊州の経営と江東との折衝役として、まだその地から 動く訳にはいかなかった。 益州の本拠成都を目指し進軍する劉備は当初は破竹であっ た。先の見える家臣は早速と劉璋を見限り、劉備の下に付いた。 しかし最後の忠臣張任が奮戦し、攻防戦の中で龐統は乱戦中 流れ矢に当たって戦死する。 龐統を失い、劉備軍は意気消沈、劣勢に陥った。孔明はすぐ に張飛・趙雲を従え援軍を率いて益州に向かう。荊州は関羽に任せてであった。 そして張飛・趙雲の両将の働きや、劉備旗下の魏延・黄忠の 奮戦によって、益州を下した劉備は、益州の経営を孔明に委ねた。 流浪の身だった劉備がついには荊州と益州、さらには余勢を 駆って漢中をも併せ領した。魏の曹操は当然脅威に感じた。単に領有しただけでなく、孔明は劉備の臣百二十人の連署によって、漢帝に上書して漢中王の肩書き を得させた。 政治的に既成事実として、劉備を対外的にも認めさせたので ある。しかも、形骸化しているとはいえ、時の皇帝に認めさせたのだ。公式に曹操と互角の立場である。 同様に脅威に感じた江東だったが、孔明は荊州の南半分を裂 いて盟約を結んだ。 劉備を曹操の魏王と同じ漢中王の立場に置いた孔明の政治力 はさすがだ。しかし、江東に対しての対処は、孔明の読みが甘かった。 魏と江東は共同して荊州を攻略せんと密約を結んだのだ。孫 権の動きと、襄陽の曹仁が南下の気配を見せると、孔明は劉備に「江東には策士が多いので先には動かない。関羽に先制させて出鼻をくじけば敵の策謀は瓦解し ましょう」と献策、関羽率いる荊州軍は機先を制して曹仁を攻撃した。 一時は曹仁を追い詰め、曹操の援軍を壊滅させ、援軍の将龐 徳(ほうとく)を斬り、関羽の勢いに曹操が遷都を考えた程であったが、この孔明の策は呉の歩騭(ほしつ)に完全に読まれていたのだ。 曹操幕下も援軍の第二陣として徐晃を派遣し、戦線を維持さ せ関羽を防いで引きつけさせた。 江東は呂蒙を派遣して関羽の背後を突かせた。荊州に残した 部下の裏切りもあって関羽は敗退、敗走途中孫権に捕まり首を刎ねられてしまった。 孔明が援軍を出そうとしたのは、関羽がすでに首を刎ねられ てからである。第一報ですぐに援軍を出そうとしたのだが、すぐ後に続いた第二報では関羽戦死の報が届く。 この孔明の対応の遅さは、関羽の性格にも一因がある。関羽 は劉備と張飛と共に三人で義兄弟の契りを結んだ仲だ。 関羽は荊州を引き受けた以上、彼のプライドが安々と援軍を 求める、弱音を吐く事に躊躇いがあったのだ。 これを差し引いても、孔明の対応の遅さ、まずさには問題が ある。 魏と江東の密約を見破りながら、関羽に先制を命じておいた だけで、巴蜀方面からの援軍を出すことや、多方面から軍事的圧力をかけることもなかった。 その上、孔明側、つまりは益州から積極的な情報収集が行わ れた様子がなかった、だからこその援軍の遅れであった。 理想を言えば、この関羽健在の時点が、蜀(蜀漢を名乗るの は今少し後だが)のピークであった。荊州と益州、さらには漢中を加えた領土と軍事力は、数字を比較すれば魏の曹操の方が上だが、その勢いは当たるべかざる ものだった。 関羽が洛陽・許昌方面に圧力をかけているのと同時に、漢中 方面から長安に進撃、二方面作戦を展開すべきだったのだ。 関羽が足止めされているならば、少なくとも後詰めの戦力 を、荊州に送るべきだったのだ。 孔明は政治的には極めて敏感で、機を見るに敏、そう言って 過言ではない。だが、こと軍事に関すれば、その対応の遅さはどういうことだろう? 先に言った「孔明に軍才が無い」とはこれらを指すのだ。 姦雄曹操が病死すると、子の曹丕が後を継ぎ、漢から禅譲を 受けて皇帝の位に就いた。孔明は同様に劉備を蜀漢皇帝の地位に就ける。政治的に同格とのアピールである。(以後蜀) 皇帝になった劉備は、義兄弟張飛と共に呉(呉王を名乗るの で、以後呉)へ関羽の弔い合戦を行った。股肱の臣趙雲も義を正すなら魏を討つべし、との意見を述べ孔明も同様に制止した。 しかし、桃園の誓いを守る為に、劉備は呉への出征を強行し た。歴戦の劉備は緒戦連勝するが、結果は陸遜を起用した呉が最後の一戦で劉備を火計で破り、劉備は助かったが永安にて病になり危篤に陥る。 「君の才能は曹日の十倍はあり、きっと国家を安んじ最後に は、大事業を成し遂げることができよう。もしも跡継ぎが補佐するに足る人物ならば、これを補佐してやってほしい。 もしも才能がないならば、君は国を奪うがよい」 「臣は心から股肱としての力を尽くし、忠誠の操をささげま しょう。最後には命を捨てる所存です」 「汝(後継者劉禅)は丞相とともに仕事をし、父と思ってつ かえよ」 最後に後継者である劉禅にそう言い残すと、劉備は孔明に後 事を託して、薨去した。ただ孔明には1つクギを刺している。 「馬謖は、言葉が実質以上に先行するから、重要な仕事をさ せてはいけない。 君はその事を察知しておられよ」 と、孔明の馬謖への態度に念を押したのだった。 ○魏延と孔明− 後事を託された孔明の課題は重い。『演義』では劉備が関羽 の弔い合戦に率いていった戦力は75万である。 無論、これだけの戦力はこの当時の人口と経済状況を考えれ ば、架空の物であるのは明瞭だ。実数は5〜10万、10分の1の7万前後の戦力ならば、十分な戦力だろう。 それが全滅に近い損害を出したのだ。この戦力が失われたの は非常な痛手である。なおかつ、関羽の死の責任を巡っては、孟達が上庸郡を挙げて魏に寝返ったのだ。当時の郡は一国に相当し、日本の四国や九州ぐらいの広 さは優にある。何しろ中国では郡は県より大きいのだ。 当時の益州の人口がおよそ110万。10万の兵を養うには 70万の人口が必要であり、そこから考えると10数万程度の戦力である。荊州、漢中を加えれば20万程度の戦力であったろうが、関羽の死と荊州陥落、そし て劉備の呉への弔い合戦での惨敗。 それに対し、魏の人口は400万を越える。3〜40万の兵 を養え、曹操が敷いた屯田制で、さらに2〜3割は多く兵を養えるだろう。 蜀の戦力は激減して疲弊の極みであった。孔明は蜀の国家体 制、経済を確立させる為に奔走する。 益州南郡が反乱を起こすと、孔明はすぐさま征伐に乗り出 し、これを平定した。『演義』でも南郡征伐は描かれているが、そこには孔明の神算奇計がメインである。しかし、ここで重要なのは南方からの得た金品と食料 で、国庫が潤ったことであり、南方(現在のタイ・ミャンマー周辺)との交易ルートの開拓、商業活動の活性化にこそ、本当の意義があると言って良い。 国庫に一応の目処が付いた所で、孔明は「北伐」、つまりは 対魏戦を行う。呉との外交関係は修復しており、南方も平定して後顧の憂いを絶った上での、宿願の魏征伐であった。 魏延、字を文長。荊州制圧の最中、劉備配下に加わった豪傑 である。劉備の彼に対する評価は高い。 しかし、『演義』では孔明と魏延の間は最悪な関係で始ま る。何せ、劉備の軍門に降った魏延を「首を刎ねるべき」と、本人の前で言ったのだ。 理由は「謀反の骨相」があることと、「都合によって主を変 える」者が現れぬように、であった。 しかし、この彼の言葉は当を得ていない。魏延の仕えた長沙 太守韓玄は、器量が狭く猜疑心が強い。名老将黄忠ですら、彼の猜疑心の前に首を刎ねられそうになったのだ。 魏延は元荊州の劉表配下。赤壁の後の混乱の最中、行き場を 失い一時韓玄配下になっただけだ。「良禽は木を択んで棲み、賢臣は主を択んで仕う」のは当時当然であり、魏延が劉備を選んだのはまったく正しい行為だ。後 年、魏の一将姜維が蜀に降るが、これもいわば「都合によって」と言って良いだろう。孔明は姜維が蜀に降ったことは、敗戦したにもかかわらず、喜んでいる。 彼の態度には問題がある。そして、これが彼のもう1つの限 界を示しているのだ。 北伐に際して、魏延は、自ら1万の精鋭でもって斜谷・子午 谷方面から最短で長安を突き、孔明は主力を率いて別道を行く。敵の備えの不備を突く、急襲強行作戦を主張していた。 しかし奇襲は、失敗すると全軍崩壊に陥る危険が大きい。孔 明は、一種の賭けに出る気にはなれなかったのだ。失敗することによって、これ以上の国力と戦力の差が出ることを恐れたのである。 孔明のこの姿勢を魏延は「臆病」と態度に出していたため、 孔明とはソリが合わなくなっていった。 魏延の献策は、果たして無理であったのか? 魏延は劉備の益州遠征軍に付き従い、幾度と無く苦戦、苦境 に陥るが、尽くそれをはね除け、撃ち破って来た男だ。 雒城(らくじょう)では、抜け駆けして、敵に包囲される が、奮戦して敵将冷苞を捉え、敵の名将張任の各個撃破策で、龐統(ほうとう)を失った混乱の最中、苦戦しつつも味方の救援を待ち必死に奮戦。粘りに粘って 黄忠の助けもあったが、最後まで諦めずに戦い抜き、敵を逆に撃ち破った。 益州と漢中を得た劉備は、漢中の太守を任じる際、皆は当 然、義弟関羽が荊州を預かっているのだから張飛、もしくは妹が劉備に嫁いだ呉懿だろうと予想した。 しかし、劉備は皆の予想に反して魏延を指名する。督漢中・ 鎮遠将軍にして漢中太守という大任である。 張飛も当然自分と思っていたのに、この指名は他の皆が驚 く。劉備は彼らを前に魏延に問うた。 「今君に重任をゆだねるのだが、君は任に当たってどう考え ているのか」 「もしも曹操が天下の兵をこぞって押し寄せてきたならば、 大王のためにこれを防ぐ所存。 副将率いる10万の軍勢が来るならば、大王のためにこれ を飲み込む所存です」 劉備はこの答えに満足し、一同もその言葉を見事だと思った のだ。もちろん、彼の奮戦ぶりを知る者は、それが高言とは思わないだろう。 劉備は魏延の才と器量を認め、彼に相応しい地位を与え、魏 延もその劉備の期待に応えた。 ここで北伐に話を戻そう。 魏延の奇襲策は取らずに、孔明は斜谷に趙雲・ケ芝(とう し)の軍を向けさせた。魏は名将曹真でもってこれに当たらせる。 その間に孔明は蜀の主力を率いて祁山(きざん)に出る。趙 雲軍は囮であり、孔明は魏の領土の外側を沿うように回り込んで攻撃した。 敵からの攻撃を受けにくくすると同時に、渭水(いすい)沿 いに軍を進めると、退却しにくくなる、それを恐れたのだ。そこで、進退の容易な祁山に出たのである。 当初は蜀の勢いに魏は苦戦する。曹真軍は趙雲相手に膠着状 態に陥り、孔明率いる主力の出現に、魏の辺境であった雍州の3郡、安定、天水、南安は蜀に降ってしまった。 しかも、未然に防がれたとはいえ、元蜀将で現上庸郡太守孟 達が、孔明の北伐に呼応して、蜀と内応したのだ。 事態に驚いた魏は、上庸郡には司馬懿に荊州・苑から討伐さ せ、明帝曹叡自ら長安に後詰めし、張郃(ちょうこう)を派遣して、祁山方面に出た孔明率いる蜀主力に当たらせた。 孔明もこの魏の動きを察知し、張郃に対する先陣を送った。 祁山より渭水を越えた北方の街亭に兵を差し向けることに なった。北回りに魏軍が背後へ回り込むことを阻止するためである。 この司令官には、当然魏延か呉懿が任じられるべきであっ た。しかし孔明は自ら寵愛する馬謖を任命した。馬謖に副将として王平をつけ、高翔と魏延が後詰めとして魏の張郃に当たらせた。 寵臣を先陣の大将に、そして魏延をその下につける人事は、 孔明の依怙贔屓だと言って良い。これが成功すれば、馬謖に箔が付けられる、そう考えたのだろうか? 『演義』では孔明は馬謖に「道を抑え、山上には陣取るな」 と、副将の王平共々言い含めた。 だが、馬謖は孔明の意見に反し、また副将の王平の諫めも無 視して山上に陣取った。孔明には際立った軍才はないが、兵法の基礎を忠実には守っている。奇策・奇略は無くとも、慎重さと基本に忠実な点は、一定の評価を 得るだろう。 それでも馬謖は己の勇と才覚を頼んで、自らの判断で山上で 魏を待ち構えた。 遅れを取った魏だったが、馬謖の布陣を見た張郃は一笑し て、すぐに山を包囲した。そして1人手勢だけでわずかな道を抑えていた王平と、馬謖の軍を分断したのだ。山上に陣取っても、補給と援軍の道を考えねばなら ない。ならばこそ、経験の豊富な将軍が任に当たるべきだったのだが、実戦経験の乏しい、いや、ほぼゼロの馬謖を抜擢した孔明の不明だろう。 この時点で勝敗は決した。 周囲を完全に包囲され、水の手も絶たれた馬謖軍は、疲労の 極みに達した時点で攻撃を受けて壊滅。 王平は手勢だけで整然と戦い、張郃は一時「伏兵か儀兵でも いるのか?」と疑うほどに善戦した。 後詰めの高翔、魏延も救援に来たが、主力であった馬謖軍が 壊滅した以上、戦いの趨勢をひっくり返すことは無理であった。 街亭を取られた以上、背後を突かれる危険があったので、孔 明は退却を決定する。 こうして第一次の北伐は終わった。 ○可能性と限界− 後に数度の北伐が行われるが、結果からみれば、この第一次 北伐が魏に勝利を収める最後のチャンスだったのだ。 後にしばしば蜀は人材不足を嘆く。この時点で見てみれば、 確かに劉備をはじめ、関羽・張飛・馬超(劉備薨去の前年に病死)・馬良・法正など一流の武将・参謀が亡くなっている。 しかし、まだ軍団長クラスで言えば、趙雲・魏延・呉懿・馬 岱・李厳・張嶷(地位は低いが功績・実力は十分だろう)がおり、一部隊を率いる武将クラスならば、関興・張苞・廖化・馬忠・陳到・張翼・霍峻・呉班など、 有能以上と思われる人材を列挙したが、これだけいるのだ。 呉の備えとして永安に李厳・陳到が、益州南郡には張嶷が置 かれたが、作戦遂行に必要な人材は、この時点ではまだ豊富と言えるのではないだろうか? そして魏延が言った通り、斜谷を抜け、子午谷を通って長安 を急襲すべきだったのだ。 なぜ孔明には、それが出来なかったのか? 理由は、彼の双肩にかかった重責である。最初の北伐である 第一次北伐に際して、孔明は劉備の後を継いだ蜀漢皇帝劉禅に、「出師の表」を上疏して、その心情と意気込みを述べている。 この「出師の表」は名文であり、これを読んで泣かぬ者は人 ではない、と呼ばれるほどに、孔明の悲痛で誠実な心情が溢れているのだが、孔明は劉備の遺勅を果たそうとするあまりに、失敗を恐れた。 彼は戦場で没するが、それも過労が原因と思われている。孔 明は自らに重責を課すあまりに、枝葉末節な些細な事柄まで自ら決済し、他人を任せず、自らの才にて処理していった。 蜀の国力を考えれば、彼が悲痛な思いで国政を仕切り、北伐 を行っていたことは理解出来る。 しかし、三国鼎立の根本は、魏の曹操は「天の時」を得て献 帝を擁し覇業を唱え、呉は「地の利」である長江を活かして赤壁で曹操を防ぎ、蜀は「人の和」でこれらに対抗する所にある。 劉備は良く人を使い、その人事に誤った所はなく、彼に仕え た者は皆その才を十二分に発揮しようと働いた。 孔明と対立した魏延も、劉備のその心意義を最後まで胸に抱 いて、孔明死後に孔明寵臣の楊儀と対立して晩節を全う出来なかったが、彼とて決して魏に寝返ることは考えなかった。彼は彼で、劉備の遺勅である「漢の復興 (つまりは蜀漢が魏を倒す)」ことを、自らに課していたのだ。 街亭の戦いに敗れ、北伐の後の論功行賞において、馬謖は敗 戦の責を負って処罰(そのまま獄死)された。 東晋の習鑿歯は言う。 「諸葛亮が中国を併呑できなかったのも、当然ではなかろう か。そもそも晋の人は〔楚と戦って破れた〕荀林父の将来における成功を期待したからこそ、法を無視して〔後の〕功業をかち得たのである。 楚の成王は子玉得臣が自国にとって利益になることを見抜 けなかったからこそ、彼を殺害して敗北の上塗りをしたのである。 今、蜀は西方の片隅に存在し、有能な人物は中国より少な いのに、そのうちの傑物を殺害して、反対に凡俗の起用を行い、優れた人物に対して厳密な法を適用し、三度の敗戦〔にもかかわらず曹沫を将軍として起用しつ づけた魯の荘公〕のやり方を手本としない。 それで大事を成しとげようとしても、困難ではなかろう か。そのうえ、先主が馬謖に重要な仕事をさせてはいけないといましめたのは、彼の無能さを説いたのではなかったのか。 諸葛亮が注意を受けながらもそのとおりにできなかったの は、明らかに馬謖をやめさせがたかったからである。 天下の宰相となって、大いに人の力を結集しようと願いな がら、才能を考えて適当な任務を与え、能力に応じて仕事につかせることができなかったのである。 人を見目という点で大失敗を犯し、聡明な君主の誡めに背 くことになり、人を裁くうえで的をはずし、有益な人物を殺害することになった。 英智についてともに語りあえる人物はなかなかいないもの だ」 以上は、『正史』馬謖伝にある彼の評であるが、孔明の他の 部分において、施政や人事は公明正大との評価が高いのに、今一歩孔明自身に視点が寄ると、評価が一変するのはとても惜しいことだ。 結局、劉備の持つ英雄としての資質である、「人を用いる 才」によって、蜀は人材を収集したが、その点において孔明は及ばず、結果「人の和」が崩れてしまったことで、魏に対抗する元を失ったのである。 孔明はこの後も数度北伐を行う。しかし魏の名将曹真に阻ま れ、彼の病死後は司馬懿によって妨げられた。 孔明の戦略は兵法の基本に忠実であり、かつ忠実すぎたた め、魏にその進撃路や戦略を読まれ、戦術的な勝利を度々得ることがあっても、最終的な勝利を手にすることは無かったのだ。 結局、孔明は戦場にて没した。 章武12年(西暦234)の秋、五丈原であった。「死せる 孔明、生ける仲達を走らす」の故事を残すが、これは彼の兵法が、基本に忠実で退却に際しても、追撃の隙が無く、攻めあぐねた側面もあったのだろう。 蜀の最後の大黒柱、孔明は亡くなったが、蜀はその後30年 に渡って健在であった。これこそが彼の特筆すべき点である。 彼の施政方針と、国家体制が直後に崩れず、その後も保ち続 けたのは、彼の資質が政治家として、本分であった何よりの証明であろう。 李厳が罪を得て、平民に落とされつつも復帰を待ち望んでい たが、孔明の死を聞くと、痛憤して発病し、亡くなった。彼は孔明はいずれ自分をもう一度用いてくれると期待したのだ。彼の手に寄って平民に落とされたが、 李厳は孔明に恨み事を言わなかった。孔明に私心が無かったからである。孔明が行った施政に対しての、当時の評価はこのようであった。 流浪の劉備軍を、一国家としての体制を作り、存続させたこ とは、魏の曹操と言う存在がある中、奇跡に近い。 劉備と孔明という両輪はベストなコンビであったのだ。だ が、それを孔明1人で背負わされた時、彼が1人でそれを行おう、もしくは行うしか無いと考えた所に、そもそもの無理があったのだ。 政治家として希有な資質を持った彼だったが、軍事に関して は不得意とするところであった。その点に彼は気が付いていたはずである。 それは彼の戦略方針が、負けないことを主眼に戦った事から 見ても明らかだ。そして、自覚しながらもその点を他人に託せなかった彼が自らに課した重責こそ、孔明が宿願を果たせ得なかった原因でもあった。 孔明は偉大な政治家ではあったが、戦術戦略家としては過大 評価が過ぎたのではないだろうか。他の評価はどうだろう? ◎参考文献 ・陳寿『正史三国志』ちくま学芸文庫1〜8 1993 ・林田慎之助『諸葛孔明』集英社 1991 ・狩野直禎『「三国志」の知恵』講談社 1985 ・孫子・呉子(訳注:天野鎮雄)『孫子呉子』明治書院 1972 ・渡辺精一『三国志人物事典』講談社 1989 ・学研「歴史群像シリーズ」 『三国志 上巻』1990 『三国志 下巻』1990 『群雄 三国志』1992 |