※一部漢字に表記
外字があるので、了承してください。文字化けなどはご一報を 秦の始皇帝が、始めて中国を1つの帝国に統一。その治世は短いものであったが、それを手本に沛県の一亭長であった劉邦が漢帝国を打ち立てるに到った。 400年の長きに渡って中国を支配し続けた漢帝国は、2世紀末にその支配力を失い、広大な中国大陸は戦乱の時代へと入って行くのだ。 各地に数多の軍閥が勃興するが、それは『三国志』の名の通り、曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀の3国に吸収される。 しかし、漢帝国より禅譲を受けた曹操の子曹丕が皇帝の位に就き、魏帝国が打ち立てられ、これが公式に漢の後の王朝になる。 しかしこの魏も、3国の戦いと内部の権力争いの結果、臣下の司馬一族が実権を握り、50年にも満たずに司馬炎が晋帝国を建国する。 結果、この晋が3国を統一するのだが、その命脈が半世紀あまりしか保てなかったのは、歴史の皮肉だろうか。 それはさておき、三国時代に終止符を打った直接の人物は司馬炎だが、彼1人でそれが成ったわけではない。彼の祖父にあたる司馬懿が、魏の曹操に見いださ れ、四代(師、昭の兄弟を1代ずつに数える)に渡って魏国内の権力を着々と握って来たからに他ならない。 この司馬懿は小説である『三国志演義』では、ヒーローである諸葛孔明の引き立て役として、損な役回りを演じているが、最終的な勝利者でることには、間違い ない。 孔明のピエロ役と見られがちな司馬懿を、演義的な見方でなく、彼の真価がどこにあったのか? 彼は生き延びたが故に勝者となった、棚ぼた的な幸運に恵まれていただけでなく、彼の巧みな計算が働いていたのだ。 その司馬懿の実力を、丹念に追ってみよう。 ○司馬一族と仲達 − 司馬懿、字を仲達(以下仲達)。司馬氏はその名を示すとおりに、代々漢に仕える名門であり、彼の祖父は太守、父は京兆の尹(首都知事兼司令官)である。河 内郡温県の一族で、父は司馬防、懿は次男で長男には朗がいる。 兄の司馬朗は、 始め冀州刺史に仕え、漢帝国の実権を握った董卓の元に入るなど、紆余曲折あったが、曹操の幕下に入る。後に呉に遠征中、夏候惇旗下として付き従うが、そこ で病死した。 同じ一族の司馬芝も曹操に仕え、曹丕、曹叡の3代に渡り河南の尹(京兆の尹と同じ)など要職を歴任し、最後には大司農にまで昇った。 彼らは共に人物、人柄共に抜きんでていたが、仲達は彼らにまして、当時の中原での知識人達の評判は高いものであった。 当然、そのことは曹操の耳にも入り、元々は兄司馬朗と共に出府を命じられていたが、仲達は病気を理由に断っている。これが建安6年(201)のことであっ たが、建安13年(208)に曹操は改めて仲達に出仕を求める。この度は「もしまたぐずぐずするようであったら、ただちに引っ捕らえてこい」との剣幕で あったので、さすがに仲達も辟召に応じた。 ○曹操と仲達− 曹操の幕下に入った仲達は、文学掾(文章起草係)として曹操に仕える。後に身分はあがるが、曹操の側にあって進言を行うのがその役割であり、当時漢の丞相 であった曹操の丞相府で司馬に昇っても、その役儀は変わらない。曹操の下にあっては、終始軍権を持つことはなかったのだ。 後に蜀の策謀によって、仲達はクーデターを疑われる。『演義』では、その際に大尉の華歆(かきん)は、 「曹操は生前『司馬懿に兵権を与えてはならぬ。いずれ反乱する』と語っていた通りになった、司馬懿の兵権を剥いで田里に帰らせよ」 と進言している。 無論、『演義』は三国志の時代より遙か後代になっての書であるので、司馬一族が魏から禅譲を受け、晋帝国を建国するという歴史的事実を、知っての上での話 である。だからこそ、この言葉の意味を、そのまま受けることは当然出来ない。 ただ実際、曹操の時代には軍権を与えられた事が無いので、完全に無視出来ない面もある。 事実、後年仲達はクーデター(表面的にはクーデター未遂を鎮める)を起こし、その結果、魏の実権を一族で掌握するのだが、仲達がどの時点で権力奪取を覚え たか、正確には不明だ。 しかし、権力の簒奪は一朝に出来るものではない。どの辺りから、仲達がそのような動きを見せ始めるのかを、歴史に遊んでみよう。 ○文帝と軍権− 曹操に仕えた仲達は丞相府において、文学掾から司馬と位を進めるが、その役割は文官、参謀である。 北方を固めた曹操は、蜀を得た劉備を抑えるべく、漢中の張魯を討伐する。張魯を下した後、仲達・劉曄はこのまま蜀へ攻め込むように進言する。 しかし曹操は「隴を得て蜀を望む」の故事を引き合いに、軍を引き上げている。 曹操亡き後、跡を継いだ曹丕は、太子時代に仲達が側付きになっていた。ここでようやく軍権の一端を握ることになる。 しかし、魏王時代には大尉に賈詡(かく)、相国が華歆、王朗が御史大夫と政務のトップに曹操時代に功績大の3人が。実戦部隊のトップの大将軍職には夏候惇 が就いている。 仲達が将軍職である、撫軍大将軍になるのは、曹丕が帝位を禅譲され魏王から文帝となってからのことで、それも中央の軍権においては高いものではない。 しかし、曹丕にしてみれば、父曹操時代の臣ばかりでは、政務を執り難くもあったであろう。そこで自身の股肱とすべく、太子時代よりの側近である陳羣を鎮軍 大将軍に任じると共に、仲達を撫軍大将軍に任じたのだ。 文帝曹丕は、蜀の劉備が関羽の弔い合戦として呉と争うのを見ると、劉備の布陣の拙さから必敗を予測。呉は蜀領内になだれ込むと予想し、その空隙を縫って、 呉へ侵攻するべく軍を動かした。黄初3年(222)9月のことである。 しかし呉の陸遜以下は、劉備を破った後、魏に対する備えをしており、魏軍はそれらに阻まれて敗退する。 『演義』に見える創作になるが、蜀の劉備が崩御した際、文帝曹丕は群臣の反対を押し切って蜀に侵攻、しかしまたもや曹丕の策は失敗する。 文帝として、父曹操の旧臣の影響を廃しようと、皇帝親政を積極的に行い、自身の側近を取り立てたが、失敗に終わった。 黄初7年(226)、曹丕はあっけなく病死する。積極策は中途で終わり、仲達も将軍職を得たとはいえ、その力を振るうことはなかった。 ○仲達とライバル − 仲達の献策は、時利あらず、成功をみなかった。実戦部隊を直接動かすことの出来ない仲達にすれば、献策によってのみ、軍事行動に関与できた。 魏の国は軍事中心である、軍国である。夏候惇、賈詡は言うに及ばず、華歆にせよ王朗も、実戦の経験があり、その実権を有していた。仲達の上に立つ、彼らの 実績と実権は、仲達に比べれば遙かに上である。 他にも将軍職である軍人には、仲達以上の功績を有しているものが山積しており、彼らを如何にして凌いで、のし上がるかが仲達の課題でもあった。 つまり、仲達自身にしてみれば、外敵である蜀の諸葛亮や呉の陸遜らが、彼の倒すべき敵、目標ではない。ライバルは彼の同僚で先輩でもある、魏の諸大臣や将 軍なのだ。 ○孔明と仲達、そ して曹真− 蜀は、正式には「漢」(漢と区別するために歴史上は「蜀漢」や「蜀」と表される)を名乗り、漢王朝の再興と、魏打倒を目標に建国されており、劉備の亡き後 は、丞相である諸葛亮(以下孔明)がその志を継いでいる。 魏においては、始めは曹真が対蜀戦線の総司令官で、仲達は荊州の宛にあって、曹真の後詰めとして軍を率いていた。 曹真が病死の後は、仲達がそれを継いで対蜀総司令官となるが、仲達にしてみれば、外敵との戦いは、それによって功績を立て、魏国内の権力基盤を確立させる のが、目的と見て良い。 そして、なおかつその戦いの中で、自身のライバル、障害となるであろう人物を始末出来れば、ベストだと言うことだ。 それが、どういうことか、以下蜀と呉の戦いの変遷と仲達の動きを見ていこう。 曹丕が40才という若さで崩御すると、その子曹叡(明帝)が即位した。 若き明帝に皇帝の座が移った事により、事態は動き出した。元蜀臣で文帝の代に魏に降り、蜀との国境である新城太守を預かっていた孟達が、密かに蜀に通じた のである。 元々文帝には大層気に入られ、皇帝と同じ車に乗るなど、その厚遇ぶりは非常な物であったが、逆に文帝亡き後はその後ろ盾を失うことになった。 かつ、親しくしていた魏の臣、桓階、夏候尚も文帝崩御に前後して亡くなっており、孟達は魏国内での自らの地位に不安を抱いたのである。 そこにすかさず目を付けたのが孔明である。 孔明は漢中より長安を目指し、そこから魏の都である洛陽を目指す計画であった。そこでさらに孟達が直接洛陽を目指す形をとれば、2方面の軍事作戦を魏は容 易に防ぐことは敵わず、魏を撃ち破ることは、蜀にとって容易であろうと考えたのだ。 当の孟達は蜀からの誘いに渡りに船と、反乱の準備を行う。 孔明は事の露見を恐れ、準備を急ぎ備えるように孟達と手紙のやりとりをする。魏にあっては自らの強敵であろう荊州苑城の仲達が、兵を動かすであろうと予想 したのだ。しかし孟達は 「宛と洛陽は1200里。私の挙兵を聞き返書が届くのに往復で一月はかかります」 と楽観視していた。つまりは仲達が宛から兵を動かす認可を皇帝から取り付けるのに、最低一ヶ月以上かかると踏んだのである。 (※中国の当時の1里は約400m弱) 孔明はその楽観論を危惧し、孟達に準備を急がせる。彼は仲達が10日も掛かるまい、と読んでいたからだった。 そしてその危惧は現実の物となる。仲達率いる軍勢はわずか8日で到着。不意を突かれた孟達は、16日しか持ちこたえることが出来ずに敗れ去り、その首は曹 叡の元に送り届けられた。 これが蜀の第一次北伐の端緒になるが、蜀自体の主力との決戦では曹真率いる軍勢が防ぎ、先鋒を預かる張郃(ちょうこう)が街亭で蜀将馬謖を破って大勝して おり、功績と実力は共に曹真が上と見て良いだろう。 曹真は当時の魏の軍事ナンバーワンと言ってよい。同じく皇族の曹休、仲達と陳羣の4人が、文帝からの遺勅により、曹叡を補佐するよう託されたのである。 これらの内、陳羣は仲達と同輩であり、「九品官人法」を制定するなど内政に功があるが、軍功は曹真はおろか仲達に比べるべくもない。 当面の仲達の目標は、この2人の皇族、曹真と曹休と見て良いだろう。 ・太和2年(228)第一次北伐の同年、蜀は再び侵攻する。 前回とは別道を取った蜀軍は陳倉道を進むが、陳倉城を預かる郝昭(かくしょう)が奮戦し、曹真の援軍である費曜(ひよう)が到着、蜀軍は糧秣も尽き退却 した。 ・太和3年(229)第3次北伐は長安方面とは別方面、武都・陰平の両郡に討って出る。 雍州刺史の郭淮が迎え撃つが、孔明の前に退いた。 ・太和4年(230)この年は逆に魏が蜀に攻め込む姿勢を見せた。 曹真・張郃(チョウコウ)が長安から漢中を目指し、この度は荊州の仲達も漢水を遡って軍を蜀へ向けた。 しかし長雨が続いたため、詔勅によって魏は兵を引き上げるに到った。 蜀の北伐を一次から立て続けに防いだ曹真は、長安にあって前線指揮を執っていた疲労からか、病になり洛陽に戻り、そのまま洛陽で没した。 この蜀の北伐に前後して、対呉戦線の曹休は敗戦が元で、背中に悪性のできものが出来て亡くなっている。 曹真・曹休ともに曹操時代から軍功を重ねて、文帝、明帝の時代にも功績大であることは間違いない。また曹操を始め皇帝(曹操は魏王だが)の信認も最も篤い ものであった。 計らずとも、目の前のライバルが2人とも退場したことは、仲達にとって最大の幸運であろう。人物も評判高く信認と実績抜群の曹真がいては、仲達も政界にお いてそれを凌ぐのは至難であろうからだ。 この曹真に変わって、対蜀戦線の司令官に任じられたのは、仲達である。 ※対呉戦線は禁軍、つまりは明帝自ら専ら当たることになった。 太和5年(231)の第4次北伐では、仲達は孔明と直接対決する。 仲達は祁山に出た孔明率いる蜀軍に全軍で持って挑み、守りを固めて持久戦に持ち込んだ。 戦況に利がないと判断した孔明は、軍を引き返した。これに、仲達は張郃に追撃を命じたが、そこで討ち取られた。 張郃は仲達の命に「兵法には、包囲の城は必ず逃げ道を開けておく、帰りの軍は追ってはならぬ、とあります」と言ったが、追撃を強行させた。 蜀軍は負けて退くのではない、これを追撃するのは危険だ、と軍事上の常識論を述べたのだ。 結局張郃は、間接的にではあるが仲達に殺される始末になったのである。 ○功臣と仲達− 曹真・曹休と皇族での功臣が亡くなったとはいえ、司馬氏に対抗出来る勢力や人物が無いわけではない。 例えば、大将軍の夏候惇は、すでに亡くなっているが、曹氏と血族関係でありその一族も有能で要職にある。 他に生え抜きの職業軍人である将軍に、剛候前将軍張遼、壮候右将軍徐晃、壮候征西車騎将軍張郃(チョウコウ)は、曹操の時代より信認を得、文帝、明帝と続 いて皇帝より厚く信頼されていた。名のある一族、貴族らの声望もそれのみでは、今の司馬一族に抗すべくもないが、それに実績の伴う将軍の人望が集まれば、 司馬一族を凌ぐ事は可能であろう。 張遼は対呉戦線において抜群の働きを示した隠れ無き名将。かつての呂布旗下ながら騎馬隊では呂布以上と謳われた人物で、呉では「その名を聞くと泣く子も黙 る」とも言われた。 徐晃は関羽が荊州の諸軍を率いて襄陽を抜き、洛陽に迫ろうと破竹の進撃を行っていた時、襄陽への援軍へ赴きこれを防ぎ、関羽を破った名将である。 張遼・徐晃の2人はこの時既に亡く、残るのは張郃(チョウコウ)のみ。 彼は元袁紹の臣であったが官渡の戦いのおりに曹操に降って以来、前線で活躍した。先鋒や副将として多くの戦いに参加し、負け戦になっても彼は乱れず結果全 軍が崩壊に到ることは無かった。冷静沈着にして武勇は張飛と競い、曹操・曹丕・曹叡の3代に渡って信頼厚く、実力と功績も司馬懿の上と見て良い。 この太祖曹操以来の武人で功績ある将軍が除かれ、司馬氏が専横に乗り出す大きな障害は無くなった。 残る障害は、個々に点在する程度であろうし、魏での有力な臣も先の将軍や功臣の2世3世であって、司馬懿と一族にとって政敵として侮りがたいものではな い。 こういった状況に変わりつつある中、3代皇帝である曹叡が崩御した。 ○明帝の死− 青龍2年(234)蜀は第5次の北伐を行い、五丈原へと陣をひいた。この戦いの最中、孔明は陣没し、蜀は撤退。孔明亡き後の蜀の脅威は激減した。 景初2年(238)仲達は遼東征伐に遠征した。遼東の公孫淵が、呉と密かに結んだのを受けての、軍事行動である。 遼東の公孫淵も仲達の敵でなく、緒戦から連戦連敗。襄平城に籠城した公孫淵は、折からの長雨もあり、完全包囲された上に、食料も尽きた。 降伏敵わず、包囲を突破して逃亡を計ったが、仲達の追撃を振り切れず、途中で捕まり斬り殺された。また城内の公孫淵の家臣以下数千が斬られた。 出征前に明帝より、この度の戦いがどの程度かかるか下問されたのに、仲達は、 「往きに100日、攻撃に100日、もどりに100日、60日を休息にあてます。このようにすれば1年で十分です」 と答え、まさにその言葉通りに、意気揚々と凱旋した。 しかし、その間に、明帝はにわかに病を得て、それによって政権争奪の暗闘が行われていたのである。 明帝は病床に着き自らの命数を悟ると、斉王芳を皇太子に、郭夫人を皇后に立てて世継ぎにした。 そして燕王曹宇を大将軍に任じて、領軍将軍夏候献、武衛将軍曹爽、驍騎将軍秦朗らと共に輔政の任につけた。 しかし3日後、曹宇は罷免され、変わりに武衛将軍曹爽が大将軍に任じられた。 これは明帝の寵臣、孫資・劉放が、度々病床の明帝の元に忍び入り、司馬懿の登用を促したのである。元来、秦朗らと上手くいっていなかった孫資・劉放は、自 らの保身を計るのに必死だったのだ。そしてそこに仲達の意向が働いていたとしても、何ら不思議はないだろう。 曹宇は、遠征から洛陽の帰路にあった司馬懿に対して、直接関中(長安)へ帰るように詔書を出させた。しかし孫資・劉放の説得もあり明帝は仲達を急いで呼び 寄せようと、自らの雑用に使う者に直接詔書を届けさせる。 前後して相反する詔書が届いた仲達は、宮中にて何か変事でも起こったのか、と早馬で洛陽に急ぐ。到着してすぐさま参内して明帝に目通りすると、明帝は斉王 曹芳、秦王曹詢の2人を直接顔通しさせた。8才と9才と言う幼少の2人を、病床の明帝は目で刺して仲達に言った。 「これはまだこんなふうだ。君よ、この子をよく見守ってやって、まちがいを犯さないようにしてやってくれ」 と斉王に仲達の頭を抱きかかえさせた。 「死すらもまたこらえてひきのばすことができるものだ。朕は死ぬのを我慢して君を待っていた。君は曹爽とともにこの子を補佐してやってくれたまえ」 仲達は明帝の言葉に、 「陛下は、先帝が陛下のことを私にお頼みになったのをごらんになったではありませんか」 と病床の明帝に答えた。「私は君に会えたのだから、思い残すことはない」と、その日に明帝は崩御した。36才(一説に34)の若さであった。 こうしたいきさつの末、仲達は皇族で曹真の子である曹爽と共に、幼い皇帝を補佐することになったのである。 ○クーデター− 大将軍の曹爽と共に、大尉に任じられた仲達は幼帝をもり立てることになった。彼と同期の陳羣も既に亡く、他の佐命の臣も同様であり、人臣では仲達に勝る者 はもはや居ない。 曹爽は皇族ではあったが、仲達を立てて父に仕えるが如きであった。社稷の功臣である仲達を憚ってのことであろう。 だが、すぐにこの関係には亀裂を生じる。新帝が即位して2ヶ月後、仲達は大尉から太傅に昇進した。表面上は位を上に置いたが、太傅は三公の上にあるが名誉 職であり、実権は無い官位である。仲達の権力を削ぎにかかったと見るべきであろう。 その証拠に、同時に曹爽の3人の弟を中領軍、武衛将軍、参騎常侍に就けている。 しかし、権限を多少削いだところで、仲達の名声が落ちるわけではない。呉の入寇に対して、しばしば功績を立てている仲達に対抗して、曹爽は自らの権威を高 めるために、蜀への遠征を計画した。 曹爽にしてみれば、父曹真の蜀遠征以来になるので、気負いの程もしれよう。 正始5年(244)、漢中へ攻め込んだ魏軍は、緒戦から攻めあぐね、蜀は援軍を向けてこれを防ぎ、追撃して魏軍を撃ち破るに到った。 この蜀遠征の前後に渡って、曹爽と仲達の対立は表面化する。かつて明帝が浮華を軽んじて遠ざけた、何晏・ケ颺(トウヨウ)・丁謐(テイヒツ)・李勝らを自 らの側近に登用し、官位を進めるなどして、曹爽は仲達陣営と権力闘争を繰り広げた。 表面上、仲達は守勢にあって、ついには病気を称して政治の一線から身を退く姿勢を見せた。 曹爽はますます増長し、華美に身を飾り、官女などを自らの物にし、近衛兵まで自分たちの私兵とするなど、その振る舞いに歯止めはなかったが、仲達の病の真 偽には疑問を持っていた。 そこで荊州刺史を任じられた李勝を、仲達に挨拶に寄らせて、様子を探らせた。 「私にはなんの功労もないのにはからずも特別の恩顧をこうむり、本州(出身の州)を治めることになりました」 その時仲達は病床で、2人の小間使いをはべらせ、着物を受け取ろうとしたが、それを取り落とした。 また口を指して喉が渇いたと示すと、小間使いは粥を勧めた。しかし口からダラダラこぼす始末。 その様子を見た李勝は、思わず涙を流し、 「今、主上(魏帝)は幼少であられ、天下の人々は明公を頼みにしております。しかし、持病の中風が再発されたとの由、御尊体がこれほどまでになっておられ るとは、思いも寄りませんでした」 これを聞いた仲達は、間延びした返事で、息も絶え絶えに、 「年もとったし病気もひどい。死ぬのも今日か明日だ。君は并州に行かれるそうだが、蛮地に近いゆえ上手くやりたまえ。たぶん2度と会えないだろうが、どう しようもない」 「本州に帰らせて貰うので并州ではありません」 「勤めて慈愛なされよ」 と、わざと呆けた振りをしたので、李勝はもう一度「并州でなく、荊州(并と荊は音が似ている)です」と念を押すと、ようやく仲達もわかった振りをする。 しかも最後には涙ながらに、2人の息子の司馬師・司馬昭の2人を宜しくやってくれ、とまで言ったので、李勝も長く溜め息をついて、 「さっそく仰せの通りにしましょう。天子様のご沙汰をお待ち頂くように」 と答えた。 李勝は仲達の元を辞去すると、曹爽に事の次第を報告した。涙ながらの李勝の言葉を信じた曹爽は、すっかり警戒を解いたのである。 嘉平元年(249)正月、曹爽らは兄弟と共に帝と高平陵に参った。曹爽らの一派が主だって都を開けたこの時を狙って、仲達は素早く武器庫を抑え、城外の浮 橋も兵で持って抑えさせた。 そして宮廷に残っていた郭太后に上奏して、曹爽兄弟やその一派の罪状を示した。 「私が昔、遼東から帰還いたしましたおりに、先帝は陛下と秦王およびに詔勅を下されて、寝台の上まで登らせ、腕をとって、くれぐれも後のことを頼むと仰せ になりました。私は『二祖も私に後の事を託されました。それは陛下がご自分の目でご覧になったとおりです。何も心配なさいますな。万一不本意な事態が起こ りましたならば、私は生命にかえて、勅命を奉ずる所存でおります』と申し上げました」 と、曹爽等の行状を続けてあげて、その罪を鳴らし、官位を剥いで諸侯の資格のまま帰還さすべし、と上奏している。 上奏文は帝に差し出されず、曹爽の元に留まったが、進退窮まり為す術がない。反司馬氏派は都を抜けるなどして曹爽の元に集まった。大司農の桓範は「知嚢」 と呼ばれ、天子を許昌に移し、都の外の軍隊を招集するよう曹爽に進言したが、曹爽は決断出来なかった。 許允と陳泰らは、逆に罪を認めて降った方が良い、と曹爽に進言する。 迷いに迷った挙げ句、曹爽は官位を剥奪するのみ、という上奏文を信じて降ることを決めた。桓範は慟哭して「曹子丹(曹爽の父曹真)は立派なお方であったの に、生まれたおまえたち兄弟は小牛同然だ。今日の日に、おまえたちに連座して一族皆殺しにされようなどとは、夢にも思わなかった」と言った。 この桓範の言葉通りに、曹爽らは三族まで誅殺されるハメになった。 軟禁されていた曹爽らに付け届けをしていた張当が、取り調べを受け、反逆を計画していたことを自白したのだ。 実際、皇族である曹爽がここまで考えていたとは考えにくく、仲達及びその一派のでっち上げと言ってもいいだろう。計画をしていれば、仲達に降るよりも、計 画の前倒しで天子を戴いて何らかの行動に移ったことは間違いない。仲達はこの機を逃さずに、政権の掌握にかかったのである。 ○仲達の死と野心 − 曹爽のクーデター事件の結果、中央の政治は司馬氏一派で占められるようになった。仲達には丞相の任命を受けたが、これを固辞した。これは政治的なパフォー マンスと見て良いだろう。 例え丞相職に就かなくとも、その権限が丞相に劣る訳ではないからだ。このようなパフォーマンスをわざわざ行ったと言うことは、少なくともこの時点では、司 馬氏による簒奪、仲達自身でなくとも彼の子や孫の代で、行う野心があったのは確かだと見ても良いだろう。 嘉平3年(251)大尉の王淩(おうりょう)が、曹操の子で、文帝曹丕の弟である楚王曹彪を、擁立しようと企てた事件が起こった。 これは計画前に仲達の知ることとなり、未遂に終わるが、この時の題目は「帝はまだ若く、権臣におさえられ、君主としての任にたえられないから、年長で才能 のある曹彪を擁立して、曹氏を興隆しよう」と言うものである。 曹氏の興隆が目的で、仲達ら一派の影響を排せようというのが、目的だというのだ。 上記を例として考えるならば、その当時は、すでに司馬氏の権勢はもちろん、それが帝室を覆うことは、すでに知れることになっていたと見られる。 司馬一族の安定を見た仲達は、同年8月5日に逝去した。73才であった。 後に孫の司馬炎が晋を建国したおりに、高祖宣皇帝と追号された。 明君である明帝曹叡の跡を受けた廃帝曹芳は、幼年であり当然直接政務を行う事は不可能である。この廃帝の時代には仲達は明確な意志を持って、政権を簒奪す る意志があったと思われる。 その理由は、「いつから?」と言う疑問に通じる。君主が幼く、頼りにならないならば、その家臣が政治を争う原因でもある。 国を治めるトップが不安定ならば、その下で暮らす世の人々は、憂い苦しむことになる。清流派の流れを汲む華北名士の仲達にしてみれば、公のための権力で あって、淀み弱い力は正しくあるべきで、簒奪、というよりは取って代わるのは当然の流れと考えて然るべきなのかもしれない。 −仲達死後〜司馬 炎と晋帝国− 仲達亡き後、長子である司馬師が、師の次には弟の司馬昭が跡を継ぐことになる。それぞれの代に、司馬氏に対する反乱が起こるが、すでに盤石である司馬政権 は揺るぐことはなかった。 司馬昭の代、蜀漢が攻め滅ぼされ、呉を滅ぼす野心と禅譲の準備が整う寸前、司馬昭は没した。 彼の嫡子司馬炎は、「寛恵にして仁厚、沈深西手度量あり」と評され、開闢の皇帝として、なかなかの人物であったようだ。 泰始元年(265)魏より禅譲を受け、司馬炎は晋帝国を建国、皇帝となった。 太康元年(280)呉を平定し、ついに中国は統一されることになる。 しかしその晋も半世紀ほどの命脈しか保てなかった。その原因は武帝である司馬炎の政策に、そもそもの遠因があったのだ。租税の元である戸調制と軍制改革に よる軍備の弱体化が、後に司馬氏の内部抗争である「八王の乱」を引き起こし、それに続く漢民族に対する異民族の反乱、そして華北の争乱と晋(西晋)の滅亡 から、東晋が江南に成立する混乱の時代へと移っていくのである。 ○参考文献 ・川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫 2003 ・福原啓郎『西晋の武帝司馬炎』白帝社 1995 ・陳寿『正史三国志』ちくま学芸文庫1〜8 1993 ・渡辺精一『三国志人物事典』講談社 1989 |