真田幸村は大阪の陣にて、戦場の露としてその生涯を終えた。大阪の陣で幸村が立ち向かった相手は、言わずと知れた徳川家康である。 その家康に、立ち向かった漢が他にもいた。真田信幸・幸村と父昌幸の一大転機となった「関ヶ原の戦い」を引き起こした、石田三成その人だ。 家康は徳川300年の開祖だけあって、それに対した三成は、後世の御用学者等から、奸智に長けた佞臣、との悪評が公然としていた。しかし、現代に到っては 彼の再評価も盛んに行われている。 関ヶ原の戦いは、日本を東西に分けて、天下を争った戦いだが、家康は関八州250万石を越え、武威も天下に鳴り響いていた。対して三成は近江佐和山20万 石に過ぎない。 格も実力も差がある三成が、家康に対抗出来うるだけの戦力を集めたことは、ある意味驚愕すべき事実だろう。 善悪、好悪の色分けのハッキリした人物であるが、少なくとも彼にそれだけ人を集め、引きつける魅力があったと言うことである。 彼の魅力、そして如何にして三成は家康と天下を分けて戦うのか、彼の生涯と共に追ってみよう。 −生い立ちと秀吉 − 永禄3年(1560)に近江石田村にて生を受ける。幼名は佐吉。秀吉に仕えてからの署名もこの佐吉があり、20才を過ぎてもしばらくは佐吉で通していたよ うだ。 この年は、世間では織田信長が桶狭間で、東海の雄今川義元を討ち、近江では湖北で浅井氏が、久政から長政へ家督を渡し、勢力を伸張させようとしていた年で ある。 近江佐々木氏の臣で石田氏がいたが、この石田氏の本領は柏原村で、三成の石田氏は、この石田氏の傍系か別系だろう。 父正継はなかなかに勉学に熱心であって、三成も手習いのために寺に奉公に出されていた。 この時に、秀吉と出会い、見いだされる事になる。以下『武将感状記』による。 三成がある寺の童子をしていた。秀吉が1日放鷹に出て喉が渇いた時である。その三成の奉公している寺で、 「誰かある。茶を点じて参れ」 と茶を所望した。三成は大きい茶碗に、7、8分にぬるめの茶を入れてきた。秀吉は舌を鳴らして飲み、「うまい、もう一杯」と言ったので、三成はまた茶を入 れてくる。先ほどより熱めに、茶碗に半分に足らないと言ったところである。 秀吉はこれを飲み、また試しに「もう一杯」と所望した所、茶碗に少しで熱く点てた茶を持ってきた。 秀吉は、三成の機転の良さに感じ入り、住持に願って自らの近習に取り立てたのである。 有名な秀吉と三成の出会いのくだりであるが、この「ある寺」は近江観音寺、もしくは三珠院と言われている。「三成茶汲み井戸」などが観音寺境内にあるな ど、どうやら観音寺と考えてよいようだ。 秀吉と出会い、彼に仕えることによって、三成は終生秀吉と運命共同体になるのである。そこで、秀吉を取り巻く状況から、三成の役割を見ていこう。 −経営者秀吉− 織田信長の元で頭角を現し、日本での成り上がりの体現者である木下秀吉は、他の織田家宿老を差し置いて、織田家臣では明智光秀に次いでの城持ち大名となっ た。 (表面上宿老に遠慮するパフォーマンスで柴田勝家の”柴”と丹羽長秀の”羽”の一字を取って”羽柴と改名している。) 近江平定の際、浅井氏を討つのに功のあった秀吉は、そのまま浅井氏の所領を与えられ、今浜に居を構えた。天正2年(1574)の話である。 今浜を長浜と現在の名前に改名した秀吉には、大きな課題が突きつけられていた。それは経営者としての才だった。 これまで秀吉は、信長の近くにあって草履取りから、槍働きなど己の身一つで信長の意を迎え、武功も立ててきた。身分も上がるに従い、自身の部下、家臣も増 えたのであるが、城持ちとなると、話は全く変わってくる。 単に家臣をまとめるだけでなく、領国経営を行うのだ。自らの部下でなく、領民を治め、統治と収益を考えねばならない。また他家との折衝や交渉など、戦場以 外でも、働きを見せる必要が出てくる。 後に武名を広める賤ヶ岳七本槍の加藤清正や福島正則などの武辺者はいても、領民を治め、家臣団として、集団の運営をスムースに行う人材を求めることが急務 だったのだ。言い換えれば官僚的手腕に長けた人物である。 元々、近江の国は近江商人が有名であったように、算術や目端の長けた者が多い土地柄でもあった。ここで秀吉は多くの人材を求めた。 増田長盛、藤堂高虎などがそうである。高虎は元浅井の臣ではあるが、召し抱えられて後に頭角を現している。増田長盛は三成と同様に、近侍として仕えた先輩 であり、他に秀吉の側に仕える者として、尾張時代から秀吉に仕えている浅野長政がいる。長政は秀吉の正妻おねの義兄弟(長政、おね共に浅野長勝の養子) で、秀吉には数少ない信頼できる縁者である。 共に三成より10才以上も年配であるが、彼らと肩を並べるまでに、その手腕を振るった。 特に、三成が才覚を示したのは、秀吉が天下人として歩み始めてからである。 天正10年(1582)に本能寺で明智光秀に信長が討たれ、その光秀を秀吉が討った。 その後はポスト信長の座を巡って、織田家の中で争いが起こるが、秀吉と宿老柴田勝家の2人の争いになった。 本能寺の変の翌年、近江賤ヶ岳で秀吉と勝家の軍は直接対決するが、秀吉はこれを破り、追撃をして勝家を越前北ノ庄で自刃させている。この戦いでは、三成も 槍働きを行い、武勲を立ててはいるが、彼の本領は裏方にあったようだ。 秀吉は信長の事業を実力で継いで、大坂を本拠として旧石山本願寺跡に築城を始めた。同時に豊臣の姓を朝廷より賜り、関白に叙せられる。 −側用人三成− 「側用人」と言う言葉は、江戸幕府になっての公用語であるが、役割は将軍への取り次ぎ役である。 天下人ともなれば、いちいち面会を求める人に会うに任せる訳にもいかず、取り次ぎや、取りなしを側近に頼まなければならない。それを取り仕切るのが側用人 であり、徳川5代将軍綱吉に見られる様な、側用人柳沢吉保のような非常な権勢を持つこともありうる。 豊臣政権にあっては、秀吉の実弟秀長、先に挙げた浅野長政、茶人千利休などであり、そして三成もその1人である。 また関白の政務をとる秀吉に代わり、事務処理や実務を行う者として奉行職を置いた。後に「五奉行」と呼ばれる奉行職だが、5人が揃って合議、署名となるの は秀吉晩年の話だ。ともあれ、主要な政務代行者であることには間違いない。 太閤検地として有名な度量衡を統一し、全国を検知して回るのだが、そこで三成は手腕を振るう。 また上杉や毛利、島津と言った有力大名の取り次ぎも盛んに行い、その権勢は浅野長政を別とすれば、奉行職の中では抜きんでたものである。 柴田勝家を滅ぼしたあとの北陸の検地を行い、堺の町を取り仕切る堺奉行を任され、九州征伐の後に戦乱で廃れた博多の町を復興させるために博多奉行として町 割りなどを行った。 九州征伐、即ち秀吉の島津征伐であるが、これには30万の軍勢が動員されている。古今にも希な大軍であるが、この大軍の兵糧、武器弾薬など奉行職として三 成が手腕を見せる。軍が大きくなれば兵站の確保が課題であり、かつ九州という遠方であった。これを滞ることなく、スムーズに行ったことは、三成の非凡さを 示すものであろう。 後には奥州仕置きや検地、朝鮮出兵では軍監を務め、多岐に渡って手腕を振るった。 才があり、当然自信もあったのであろう。そういう人物は得てして人の意見に耳を傾けないことが多い。しかも天下人の信任厚い側近である。逆にその意を迎え ようと、彼に取りなしを頼む者はそうするであろう。 自然権勢は高くなり、彼の性格もあいまって、傲慢不遜に写る。 彼の朋友で、関ヶ原のおりの謀臣でもある大谷吉継は、三成決起の際、 「君の人に対する態度は横柄で、皆もそれは日頃悪く言っている。君が上に立っても人はついてこない」 と直言しているが、三成の普段の人となりを著している。 しかし、三成が理不尽な男かと言えば、そうではない。 九州の島津氏が降った後、島津家当主義久は家督を弟の義弘に譲り、人質として娘亀寿と共に上京することになった。 これを出迎え、接待したのが三成と細川幽斎で、後に義弘も上京して秀吉に謁するにあたり、三成が取りなしている。 しかも1年余りで、義久は国許へ戻ることを許され、また人質の亀寿もしばらくして同じく戻された。 この扱いは降将としては破格で、三成の力が大であった。しかも義弘が上洛の際には、三成に対して領国経営の意見を求めると、領内の政治の他にも、薩摩から 上方への米の回送方から販売ルートなど、事細かにそれに応じている。 国内のことを問うなど、機密になるので他国ものには容易に出来ないことだが、これから三成への信認の度合いがわかるものだ。 また会津の蒲生秀郷の跡を継いだ秀行だが、彼がまだ年若く重臣間の争いを理由に減封させられた際、多くの浪人が出ることになった。三成はこれを哀れに思っ て、それら浪人を多く召し抱えた。 また、それより後年、朝鮮の役の際に、小早川秀秋の行状が逸脱して悪かったことから秀吉の勘気に触れ、一時領国が召し上げられることになった。 その時も先と同じく多くの浪人が出ることになるので、小早川家宗家の毛利輝元と相談の上、多くの家臣を召し抱えた。 また近江に4万石の身分であった三成が、高名な島左近を召し抱えたと聞いた秀吉は、事の真偽と次第を三成に聞いた。 すると、三成は左近を1万5千石で召し抱えたと言う。他の家臣も当然禄を食むことを考えれば、君臣同禄である。 「そのようなことは例がない」 と、周囲の者をも感銘させた。また先の蒲生家移封の際に、剛勇で聞こえた蒲生郷舎を召し抱えるなど、彼の家臣には武勇にも優れた将士が揃っていた。 彼の態度は、秀吉への徹底した忠誠心の表れで、不遜で鼻持ちならない所は多かっただろう。しかし三成の行動に私心が無く、その才気が常ならざる所は喰えな いヤツ、と一目置かざるを得なかっただろう。 −家康と三成− 徳川家康は、豊臣政権から政権を奪い、これを倒すことによって、徳川300年を築いた人物で、同時に三成が最後に、もしくは最後まで戦った相手である。 三成はこの家康をかなり危険視しており、天正17年(1589)の秀吉による小田原征伐の際にも、その事が伺える。 かねてより小田原の北条氏に対して上洛を求めていたが、当主氏政以下はこれに従わなかった。そして秀吉は上州の真田昌幸と謀って、北条側に誘いをかける。 すなわち北条旗下の猪俣邦憲の名胡桃城奪取が、その契機である。これを口実に北条征伐の断を下した秀吉は、諸将を多方面から北条領へと侵攻させた。 その主力は、東海道を進む軍勢で、徳川家康を先鋒に駒を進めた。 当時の家康の居城は駿府の府中城で、秀吉もここに入ろうとしたのだが、家康は北条氏直の外舅にあたるため、これを警戒していた。 三成の注進もあって秀吉も一旦入城を躊躇したが、浅野長政や大谷吉継がこれを取りなし、秀吉は府中城に入った。再三、三成は家康を警戒し、家康を先鋒に使 うことにも反対したが、結果は当初の予定通り家康が先陣になる。 ちなみに、この戦いでは、小田原以外の北条氏の諸城を、三成は関東諸将を率いて攻略している。 これ以降、三成は再三家康を危険視し、種々の行動にでるが、家康のみに対して行った、と言うのではない。 秀吉の築いた豊臣政権に対して、危険な要因であると思われるものに対して、内外問わず三成はいずれにも目を光らせていたが、その中で家康は最大の相手で あった。 −豊臣政権と秀吉 の晩年− 相州小田原北条氏を降した秀吉の威勢を見て、奥州の諸大名も秀吉の軍門に降った。 こうして秀吉は日本の国を統一し、ここに応仁の乱以来の、1世紀に及ぶ戦乱の時代が終焉を迎えたのである。 日本の国が、戦国時代という戦乱の時代に飽いたと言っても過言でなく、それを終わらせた秀吉の功は、一言では語れないであろう。諸将も、これで平和にな る、と思ったはずである。 この時が豊臣政権の最盛期であった。 豊臣政権は2つ、問題を抱えることになる。1つは継嗣問題である。秀吉には正室北の政所の他、多くの側室がいたが実子が無かった。ここで姉の子で三好氏の 名跡を継いでいた秀次を養子に迎えた。しかし、文禄2年(1593)に、側室淀君との間に実子秀頼が生まれるにあたって、秀次と豊臣氏の未来に暗雲が立ち こめる。 もう1つは、秀吉が九州征伐の頃に、すでに一部の者に漏らしていた、「唐入り」即ち、明への遠征であった。これは当初そう考え行われたが、朝鮮を経て明へ 攻め入る計画が、朝鮮の義軍などの抵抗から、目的を明から朝鮮へと変わらざるを得なくなり、結果は惨たるものに終始した。 この「秀次問題」と「朝鮮出兵」が、豊臣政権の土台を大きく揺るがした。 秀吉は天正10年(1591)に秀次を養子として、その翌月の12月には関白職を秀次に譲っている。無論、実権は秀吉が握っており、自らを「太閤」として いわゆる院政を行っている。 すでに50代半ばを越え、当時の寿命を越えていた秀吉は、もう自分に子は出来ないと思い、秀次を跡目にと、当初は考えていたようだ。 家康・織田信雄と争った、小牧・長久手の戦いでは、別働隊を率いたが諸将の統率が出来ず無様に敗退するなど、秀次と言う人物は、どうも器量人ではなかった のだろう。秀吉は度々、彼に訓戒を与えていた。 秀吉は、親類縁者が少なく、秀次を養子に迎えた年初に、信頼する実弟秀長が死去したので、ますます頼みにする血縁が少なくなった。 元々身分の低い秀吉の縁者である。こういう言い方は彼に悪いが、学も無い上に、秀吉の頭のキレの一端も持っていない人物だった。事実、官位が上がり、他の 公卿らと交際すると、当初はその学の無さを笑われたりもした。 この秀次に関白職を譲った後、秀吉に待望の実子が生まれた。後の秀頼である。 これによって秀次の立場は非常に微妙なものとなった。 後世「殺生関白」などと揶揄されているように、彼の行状は荒れたものとなり、世の人々には傲慢不遜に写った。 正親町天皇の喪中に狩猟を行い、不殺生の地である比叡山でも狩を行い、そこで禁制の禽獣の屠殺をした。 こうした行状が秀吉の耳に入ると、秀吉の秀次に対する目は冷ややかなものにならざるを得ない。しかし、秀次のために言うならば、実子秀頼が生まれてから は、その生母淀君は秀頼に跡目を継がせたいと強く思い、日に影に秀吉に迫っているのだ。秀吉にしても、養子よりは当然実子に継がせたい、それを秀次はどう 思っただろう。 彼も、彼なりに秀吉の跡目として努力したが、比べる相手が相手であった。また20才そこそこの青年である。少々荒れるのは、彼の置かれた立場を思えば当然 ではないだろういか? よく言われる、妊婦の腹を裂いたり、料理人を殺し、戯れに鉄砲で領民を撃つなどは、後世の偽作だ。 政治的な能力と評価はともかく、公卿として背伸びし努力の結果、文筆を誉められるほどには上達するなど、学問をそれなりにわきまえたのである。山科言継も 日記で評価を示しているのだ。地道な努力を行うしかない彼に、謀反を考える余地が一片たりともあっただろうか? この後継問題と朝鮮出兵とが絡まって、秀次は凄惨な最後を迎える。 秀長が病没し、またブレーンであった茶人千利休が秀吉の勘気に触れ切腹させたため、秀吉を諫めるようなブレーン、側近は居なくなった。それらはいわば秀吉 と周囲の折衝役、緩和剤なのだが、彼ら亡き後は秀吉は実子秀頼を偏愛し、自らの行為と業績の結集である唐入りを夢想するだけの、耄碌爺と言ってよかった。 秀次の行状を調べ、秀吉に報告したのは三成である。三成にすれば、秀吉の「実子秀頼に、跡目を継がせたい」という意を受けて、秀吉の望む様な報告をしたこ とは間違いない。秀次にも、そうさせるだけの隙があり、そこに「殺生関白」の風評を生む余地があったのだ。 秀次に謀反の嫌疑をかけて、一言の弁明もさせずに高野山に蟄居させ、そのまま切腹させた。それだけではない。彼の妻妾34人を三条河原にて、斬られている のだ。最上義光の娘などは、秀次の顔を見る前に連れて行かれて、有無を言わさずに殺された。 また秀次の子、嫡男の仙千代丸5才、3才と4才の弟に年端もいかない幼女も、民衆が見守るなか、全員殺すという悲惨なものであった。これを指揮したのも三 成と言われている。 さらに秀次と姻戚にあった大名も、同じく謀反の疑いで調べられている。最上義光、浅野幸長(長政の子)、伊達政宗、細川忠興などである。政宗、忠興は嫌疑 が晴れたが、義光、幸長は幽閉に流刑と処罰された。 秀吉の意を受けた三成に、この凄惨な事件の全ての責任を負わせることは出来ないが、諫めることがなかったのも事実である。 養子とはいえ、後を継がせ関白である。これをいとも簡単に殺し、その年端も行かない子供を殺すとは、当時のモラルを考えても尋常ではない。まして、謀反な ど行う器量のない人物が、謀反を起こせるはずもなく、嫌疑は100%言いがかりだ。 だからこそ、周囲を納得させる意味もあって、殺生関白の噂を流布させた側面もあるだろう。 しかし、これを見た諸大名はどう思っただろう。愛情に欲ボケした独裁者としか見えないのではないだろうか。そして、それが豊臣政権への求心力を低下させて しまう契機になったのではないか。 秀次が謀反を起こせる人物でないと、秀吉ほどの人物ならわかっているはずだが、大切な血縁を殺すことは、豊臣政権にとってマイナスでしかない。その程度の ことがわからない秀吉は、耄碌しているだけとしか言いようがない。 三成はこのことがわかっていなかったのだろうか? 三成ほどの頭のキレのある男が、その程度のことすらわからないはずがない。秀吉の意を迎えることに、全霊を傾けていた男だ。三成は秀吉の意を迎え、その機 微を察することによって、出世を遂げた男である。 秀長、利休亡き後は、三成はその存在をより大きなものにさせていた。 秀次の人物の是非よりも、秀吉が実子秀頼に跡目を継がせたいと考えたため、その意を如何にかなえるかが三成にとっては大事であったのだ。その思いが強すぎ たために、三成の視野はある部分で、非常に狭いものになっていたと言えよう。 それは彼の性格的な部分、自分1人の双肩に豊臣政権を背負っても、上手く運営出来るとの自負と自信からくるものでもある。 そして、不必要な出兵、朝鮮への出兵からくる国内の疲弊は、求心力を急速に失う豊臣政権内部にあって、豊臣恩顧と呼ばれる諸将と、政権執行部である三成等 の間に反目を生むことになった。 −朝鮮出兵と秀吉 の死− 朝鮮への出兵は、途中明との講和を挟んで、前後を文禄・慶長の役と呼ばれる。 文禄の役で朝鮮へ渡ったのが約16万。九州肥前名護屋に在陣する諸将を合わせると30万が動員された。 文禄元年(1592)から慶長3年(1598)までの長きに渡って、この戦いは続いた。わざわざ異国の地へ戦いに赴いたのだ。朝鮮に大きな傷跡を残したこ の戦いは、明国・朝鮮・日本と何ら意味の無いものだと断言できよう。 しかし、この遠征が豊臣政権にもたらした影響は大きい。屋台骨が固まっていない豊臣政権の内部に置いて、諸将の反目、亀裂を生じさせたのだ。 もちろん、その原因は主君である秀吉に帰結する。文禄の役の際の明との講和条件に「明帝の娘を日本の后妃に。朝鮮の王子を人質として日本へ。朝鮮南道の割 譲。日明の勘合貿易の復活」と、およそ現実離れも甚だしい。ただの、誇大妄想の耄碌者でしかないだろう。 朝鮮の役への批判は、日本国中で急速に広まる。しかし天下人へそのような事を、直接口に出せる訳でもなく、まして豊臣恩顧の大名なら特にそうであろう。 自然と、秀吉に対する不満・批判は、形を変えて噴出する。それが三成への批判である。 秀長、利休亡き後、豊臣家の家政を一切取り仕切ったのが、三成である。浅野長政は先に挙げたように秀吉縁故で、秀吉の信認も厚いが、三成の才覚はその長政 を差し置いて、奉行職筆頭にあげるほどになった。 秀吉が悪いのではなく、佞臣三成が悪い、と朝鮮に出兵した諸将は特に強く思っただろう。 特に秀吉子飼いの加藤清正、福島正則等を筆頭にする戦場働きで功を上げてきた諸大名にしてみれば、戦場でさしたる功もない三成が20万石の大名に取り立て られたことに、納得出来かねる心情もあった。 秀長、利休が存命中は、秀吉と諸将の調整役として存在感があり、三成がそれほど前に出る必要は無かった。 利休は秀吉の命により切腹、武士でもないのだが、させられ、自らの手足を縮めるハメになると、状況が変わってくる。 そして三成への政権の比重が増えると、そのような潜在的な不満が、表面に現れ始める。その契機が朝鮮出兵における、三成の軍監職である。 特に加藤清正との反目は、豊臣政権にとって決定的なものにしたと言えよう。 慶長3年(1596)秀吉の命で、清正は戦場から召還された。理由は ・小西行長を泉州の町人と朝鮮人に対して罵った。 ・明への書簡で、勝手に豊臣姓を名乗った。 ・清正の家臣が、明の正使の財貨を奪取して逃走した、監督不行届。 朝鮮での小西行長との先陣や手柄争いから発した行為だった。秀吉はこれを怒り、帰国した清正は、面会すらかなわないほどであった。後に家康や前田利家の取 りなしに、伏見の大地震の際の功によって、ようやく秀吉の勘気は解けた。 このことを清正は、三成の讒言だと怨んだ。 また他の朝鮮在陣の諸将は、功績の評価が正当でないとの訴えも、三成が手元で握り潰したと偏見で思い込んだ。そうした不満の鬱積は、朝鮮での過酷な戦況で 大きくなっていっ た。損害の大きな部隊では損耗率が4割近いところもあり、異国の地であるのに逃散して朝鮮義軍に投降する将兵も続出した。 これだけ苦しい思いをし、かつ莫大な戦費と犠牲を払っている見返りが少ない、そういう諸大名の現実的な経営問題があった。一方、三成や政権側からすれば、 領土が得られていないのに、褒賞として出す封地が一寸もない。無いものを要求されても困る、豊臣政権の運営が困難になるのがわからないのか、との相反する 思いがあった。 慶長3年(1598)8月18日、太閤秀吉薨去。 秀吉はその死に臨んで、5奉行の上に有力大名による5大老の制度を敷いた。 徳川家康・前田利家・毛利輝元・小早川隆景・宇喜多秀家の5人だが、隆景が慶長2年(1597)に亡くなると、変わって上杉景勝が務めた。 奉行や大老の各人は、秀吉の生前に、再三に渡って血判による誓紙を差し出して、秀吉の子秀頼に対する忠誠を誓った。 −家康の暗殺計画 と三成襲撃− 秀吉が亡くなると、家康はすぐに行動に出た。即ち、禁止されている私婚の禁止を無視して、誓紙を反故にしたのだ。 6男忠輝と伊達政宗の娘と婚約させ、養女を福島正則の嗣子忠勝に嫁し、蜂須賀家政の子とも婚姻を結んだ。 利家・三成は家康を詰問し、このため両者の間は険悪になった。双方有力大名を味方に一戦をも辞さない構えになった。三成・利家の側には宇喜多・毛利・上 杉・佐竹・小西・長宗我部等の諸将が、家康の側には池田・福島・黒田・藤堂などが付いて険悪なムードになったが、生駒一正・堀尾吉晴・中村一氏の両者への 斡旋があって、和解が成立した。 だが家康にしてみれば、自分の敵を見極めるために、わざと行った事だ。 和解と言っても、すでにポスト秀吉に向けて動いている家康にすれば、その野心をわかっている三成にしても、表面上の事でしかなかった。 病床に伏した利家を家康が見舞うなどして、和解の成果が一時見えたが、その隙を狙って三成は家康を暗殺しようと、計画を練った。 これは家康の身辺を加藤清正・黒田長政や池田輝政が警護していたために、果たすことは出来なかった。 そして慶長4年(1599)閏3月3日、秀吉の死後1年に満たずして利家もこの世を去った。 三成に反感を持つ諸将は「三成憎し」の情から、家康の側に付いた面もあった。そこを上手く利用したのが家康で、その反目は利家の死をきっかけに激発した。 利家が秀吉子飼いや豊臣恩顧の諸大名の反目を抑え、家康との間を極めて細い糸で張ったバランスの上で、なんとか成り立っていたのだ。しかし、利家が死ぬと 同時に、それも崩れた。利家が亡くなったその日、加藤清正・黒田長政・細川忠興・池田輝政・加藤嘉明・浅野幸長の7将が三成を襲撃した。 名目は、朝鮮の陣での功績の評価が正当でない。報告をした目付の福原直高・熊谷直盛の処罰を三成に再三要求したが拒否され、それを怨んでのことである。 三成は佐竹義宣の言を入れて、宇喜多秀家の舘に逃れたが、秀家では清正以下猛将を抑え難しとみて、家康の元へ向かい庇護を求めた。 家康の元へ7将が詰め寄ったが、家康は逆に諸将をたしなめ、三成には佐和山へ引退するよう勧告し、三成もこれを入れた。家康は結城秀康を護衛に付け て丁重に佐和山へ送り届ける。 家康にすれば、ここで三成を殺しても、政権を取れるわけではない。三成に反徳川勢力を求心させ、激発させた上で、これを討つ腹づもりである。ここまで家康 が傍目からでも強引に見えるやり方をするのは、自分が高齢でもあり、秀頼がまだ幼い間に、ポスト天下人は自分であり、徳川家であるという既定路線を築きた いからだ。 三成にしても、家康の隙を狙って討つ、暗殺という手段は成しがたい。となれば、正面からの決戦によって、家康を討つ。家康さえ除けば、との思いから佐和山 へ籠もり、挙兵の準備を整えた。 こうして、「関ヶ原」への道は決定的となったのである。 ○参考文献 ・今井林太郎『石田三成』1961 吉川弘文館 ・北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』1995 吉川弘文館 ・児玉幸多監修『人物日本歴史館』1996 三笠書房 ・小和田哲男『日本の歴史がわかる本』1993 三笠書房 ・岡谷繁実原著・北小路健・中沢恵子訳『名将言行録』1980 ニュートンプレス ・学研歴史群像シリーズ『文禄・慶長の役』1993 学研 ・学研歴史群像シリーズ『関ヶ原の戦い』1987 学研 ・小和田哲男『戦国合戦事典』1996 PHP研究所 |