17.三国志の終演・前編

※表記外字があるので了承してくださ い。文字化けなどはご一報を 


三国志は、言わずと知れた羅貫中が正史である『三国 志』を元に、元末明初に小説である『三国志演義』を著して以来、そこからさらに小説、演劇、漫画、アニメ、人形劇など様々なメディアに派生していった壮大 な歴史物語であり、史実である。

この三国志と言う時代は、紀元前221年に蓁が初めて広大な中国大陸を統一し、漢帝国、後漢帝国がこれを引き継ぎ、統一国家を成し得たのであるが、そ の漢帝国の支配が崩壊し始めると、各地に群雄が現れ、それぞれが覇を競うに到る。
結局、魏・呉・蜀の3国に落ち着いた後、魏の曹氏が漢帝国から魏帝国に、そしてその魏から禅譲された司馬氏の晋が、漢後の大陸統一国家として存在する。

しかし、この晋帝国の覇権は長く続かず、統一して40年を待たずに南北に分かれ、群雄が割拠し、北朝南朝それぞれ覇権を握る国家が目まぐるしく変わってい く混乱の時代へと遷って行く。
そしてそれが、なんと589年に隋帝国が統一国家として成立するまでの、長きに渡るのである。

言い換えれば、後漢の争乱、黄巾の乱から発するとして184年からの約400年間の内の1割が、全国統一していた例外的な期間で、それ以外は分裂と抗争状 態だったのだ。しかも漢代から漢民族を悩ましてきた異民族、三国志では匈奴、烏桓、鮮卑や羌など(チベット・ウイグル系やモンゴル系民族。遠くはヨーロッ パ系民族もあった)馴染みがあるが、それらが華北にまで侵入して、漢民族は長江以南に追いやられる事態にまで陥ってしまう。

つまり、単なる中国内の抗争と言うよりは、民族間同士の争いや、融合の時期であったと言える。

コラムの11と12で、諸葛孔明と司馬仲達を取り上げ、三国の内、蜀と魏の国の大まかな流れを書き示したが、三国時代の終焉そのものまでは到っていない。

今回は、三国時代が如何にして終焉、いや三国志(演義)と言うからには終演が適当か、終演を迎え晋に到り、そして何故晋が40年にして帝国を全う出来な かったのかまで踏み込んでみたい。


※今回はコラムの「11.諸葛亮の虚実」「12.司馬懿・勝者の実力」を先に読んだと踏まえた上でお願いします。




−司馬氏によ る晋国建設と蜀の滅亡−


・司馬師による司馬氏政権

洛陽より黄河を挟んで北に位置する河内の名門である司馬氏は、漢の宰相を務めて、魏を建国した曹操に早くから仕えていた。
曹操が魏公に、曹丕の代で漢の献帝からの禅譲を経て皇帝となるその過程においても、司馬氏はその政権に早くから参画している。
一族の中でも、特に司馬懿は抜きん出ており、2人の子司馬師、司馬昭と共に曹丕の子曹叡の代には政権の重要ポストを占めた。
曹叡の子、曹芳がわずか8才で即位すると、皇族である曹爽と権力を争い、「司馬氏のクーデター」とも評される結果、曹爽一派を粛正し、魏国内での権力を確 立させるに到る。

嘉平3年(251)に司馬懿が死ぬと、司馬懿の正妻の子で長男の司馬師が跡を継いだ。司馬懿、司馬師として司馬氏は曹操のように宰相職に就いて、国家制度 上のトップに就いて権力を掌握するスタイルを採っていない。
司馬懿は太傅と名誉職であり、司馬師は衛将軍から大将軍・録尚書事として権力を握っている点少し違っているが、宰相と変わるところはないだろう。

司馬懿が死んだ同じ年、呉では孫権が同じくして亡くなっており、陸遜・諸葛瑾など有力武将もすでに亡く、司馬師はこれを好機と呉征伐の軍を起こす。
征東大将軍胡遵・鎮東将軍諸葛誕、征南大将軍王昶(おうちょう)・鎮南将軍毌丘倹(かんきゅうけん)と総勢10万を越える軍で呉の巣湖を攻めた。

呉は諸葛瑾の子諸葛恪が巣湖を守り、丁奉等を繰り出し、機先を制して胡遵・諸葛誕の軍7万を撃破した。別行動していた王昶・毌丘倹はこれを受けて軍を退 く。
この大敗の責任を、司馬師は「私の過失である」として、弟司馬昭が監軍であったため、その爵位を下げ、諸将の責任を不問に付した。


司馬師は人心に執着するが、司馬師に対する批判と反動はすぐに表面化した。



・李豊のクーデター未遂と寿春の反乱

中書令の李豊は魏の名士で、皇帝曹芳の娘を子の李韜に降嫁されている皇帝に連なる名門だ。その李豊が曹芳の皇后である張皇后の父張緝(ちょうしゅう)と結 んで、夏候玄を輔政の任、即ち司馬師に取って代わらせようとの策謀が行われた。
李豊は弟の李翼が兗州刺史であったので、密かにその手勢を朝廷内に入れ、司馬師に対してのクーデターを行おうとしたが、李翼の参内は許されず頓挫した。
そこで、朝廷内の蘇鑠(それき)・楽敦・劉賢に計って近衛兵を利用して、司馬師を誅殺すべく計画を巡らした。

このことはすぐに司馬師の耳に入り、李豊を呼び寄せると、来た途端に李豊を殺した。元々李豊は司馬師に信任されており、李豊も計画が漏れているとは思わず 不覚を取ったのだった。
これに関わったものは夏候玄を始め全員処刑された。この李豊を始め張緝が共に皇帝に連なる人物であったために、皇帝曹芳の意向が少なからず働いていたこと は間違いない。

そのため、司馬師は曹芳廃立を行う。嘉平6年(254)の2月に李豊等一派を粛正してすぐの同年9月には、郭太后から皇帝廃立の令が下り高貴郷公曹髦(そ うぼう)が即位する。曹芳の追号が「廃帝」とはあからさまで、司馬師の人となりの一片がわかりそうなものだ。次の皇位に司馬師は元々彭城王曹拠と考えてい たが、郭太后が「彭城王は末の叔父にあたるので、自分は移らねばならない」と自分の地位の不全を理由に渋り、結局曹髦が一時郭太后の元にいたとのことで、 曹髦に決まったのである。
これは、郭太后の司馬師に対する、わずかながらの反抗とも言えぬほどの反抗であった。


この一連の廃立騒ぎで、司馬師を非難し反抗の兵があがる。


曹髦が皇帝に就いた翌年正元2年(255)淮南の寿春で毌丘倹と文欽が反乱を起こした。名目は皇帝を廃流した司馬師の排斥である。
元々、夏候玄や李豊と親しかった毌丘倹や、曹爽と同郷である文欽は、この一連の動きに穏やかではなかった。
また、この反乱の名目は「司馬師だけ」が悪いと上奏文で述べており、同じ司馬一族でも司馬懿の弟の司馬孚とその子司馬望、そして司馬師の弟の司馬昭など は、忠実かつ誠実な人物であると述べている。とことん、司馬師が嫌われていたのは興味深い。

この反乱に対して誰を征討の任に当たらせるか朝議したが、司馬師側近は揃って司馬師自らの出征を促した。
司馬師は左目の下に大きなこぶがあったが、そのこぶが痛み出したので医師に切開手術させたばかりであった。そのため渋ったが、結局周囲に押されて決断して 自ら軍を率いた。

寿春の東方から諸葛誕等が、荊州・許昌方面から王基がそれぞれ兵を進め、退路を断つ形を取った。
司馬師は昼夜強行し、毌丘倹・文欽側は淮水を渡ってこれを迎え撃った。司馬師は河を挟んで対峙し守りを固めて、その間に諸葛誕が寿春を襲う。
進退窮まった毌丘倹・文欽側は多くの兵が逃亡したが、司馬師が楽嘉において誘いの隙を見せると、そこで戦いが起こった。文欽とその子文鴦の戦いぶりは、あ まりに凄まじく、その為司馬師の傷口が開いて目玉が飛び出してしまう。
司馬師は必死に痛みを堪え督戦した結果、寡兵の文欽軍は敗退したが、痛みを堪えるために被っていた布団が破れてしまう程であった。

結局文欽親子は呉に亡命し、毌丘倹は文欽軍が敗れて、恐れおののき敗走途中に殺されて乱は治まった。
父司馬懿は反乱に荷担した者全員を処刑したが、司馬師は首謀者の3族を誅したのみで、他は皆許した。これは自分に人気が無いために、人心を得ようとしたか らであろう。

しかしその司馬師も開いた傷が元で帰還途中に危篤となり、後を弟の司馬昭に託して死去した。享年48。遺体はそのまま洛陽に遷され葬られた。



・司馬昭と蜀の滅亡

司馬昭は司馬師の同母弟で3才の年下である。父と兄を助けて内外に功があり、司馬氏による簒奪はこの司馬昭に託された。
兄の死後すぐ、皇帝曹髦より「許昌にしばらく留まるよう」と勅命が下され、禁軍は洛陽に引き上げさせるよう命じた。皇帝と郭太后が、司馬氏と軍権を切り離 そうと策謀したのである。
これに対して司馬昭は命令を無視して、禁軍を率いて洛陽外の洛水に帯陣した。驚いた皇帝側は、すぐに司馬昭を召して、大将軍と録尚書事に任じて兄の跡を無 事に継いだ。形式的な任命権は皇帝にあっても、実権と兵権が司馬氏政権から動くものではなかったのだ。

司馬昭は父司馬懿、兄司馬師と経て、その基盤も強固になりいよいよ禅譲の準備を進めた。そして反対勢力の探り出しと、粛正に乗り出した。

寿春の諸葛誕は司馬氏政権下でたびたび功があり、征東大将軍と重鎮にして淮南方面の対呉戦線の総司令官である。蜀の諸葛亮、呉の諸葛瑾、諸葛恪などと同じ 瑯邪郡(ろうやぐん)の諸葛氏の出で、当時の名門である。
その諸葛誕は、先に粛正された夏候玄等とも親しく、また先に寿春で反乱を起こした王凌、文欽・毌丘倹などを思い返し、自らの身に不安を覚えていた。


甘露元年(256)呉の一部が侵入してきた時、さらに10万の兵を求め、築城の許可をも求めて来たため、司馬昭は諸葛誕に疑念を抱いた。そして腹心の賈充 を派遣し、賈充の口から、「洛中では皆禅譲を願っているが、君はどう考えるのか」と問いかけられると、「君は賈予州(賈逵)の子ではないのか」と不快感と 怒りを隠そうとしなかった。

賈充の報告を受け、朝廷では対策を計ったが、先帝以来の功臣であるため中央に召し返して、それから対応する考えにまとまった。要は遠くに居られるよりは、 近くに置いておけば、すぐに対処出来ると考えたのだろう。甘露2年(257)5月、彼を三公の1つ、司空に任命し、軍は揚州刺史の楽綝(がくちん:曹操時 代の功臣楽進の子)に預けるよう使者を送った。

この任命を受け、諸葛誕の不安は確定的となって、ついに反乱を引き起こした。

まず軍勢を楽綝に引き渡すように命じたのは、楽綝が何か手を回したからだと思いこんだ諸葛誕は、わずかな手兵で揚州へ赴き、楽綝を殺した。
淮南、淮北、揚州の軍勢に、屯田民などを集め、10数万の軍勢と1年に耐える食料を集め寿春城に籠もった。また末子の諸葛靚を呉に人質として送って、援軍 を求めた。
呉では喜びこれを迎え、先に降伏してきた文欽・文鴦親子を先ず送り、将軍の全懌(ぜんえき)・全端・唐咨・王祚の3万を派遣して寿春城へ向かわせた。魏で は鎮南将軍の王基が寿春を包囲すべく迫ったが、呉の軍勢は間一髪城内への突入に成功した。

司馬師はすぐに自ら出陣することを決めると26万の軍勢を集め、これを50万と号して寿春へ向かったが、皇帝と太后も共に連れていった。先の大将軍就任の 経緯を考え、留守中に何かと策謀されては困るからである。

司馬師率いる魏の包囲は6月に完了する。その翌7月には呉は大将軍孫綝(そんちん)が大軍を率いて寿春の包囲を破ろうとしたが、先陣の朱異が攻めきれずに 軍を引いて、孫綝の不興を買い殺されるなど、その行動に整合性を欠いた。結局、後に魏の包囲を打ち破れないと見て、孫綝は退却する。
魏は寿春城内に流言飛語によって反間を起こさせ、全懌など呉の将軍は魏に降った。呉の援軍などによって食料の消費も増えたためか、食料も乏しくなると、城 内に動揺が起こり降伏する者が出始める。
諸葛誕、文欽、唐咨は包囲軍を5、6日に渡って攻撃したが、結局撃ち破れず、城内はいよいよ行き詰まった。
諸葛誕、文欽は元々ソリが合わなかったので、お互い反間と疑念を生じ、諸葛誕は口実を付けて呼び寄せた場で、文欽を殺してしまう。

文欽の子、文鴦(ぶんおう)と文虎は寿春城から逃げ出て司馬昭に降伏し、周囲に「当然斬罪にすべし」との声を抑えてその罪を許した。つまりあの文欽の子で すら殺されないのだ、他の者が降伏するのに何を躊躇うことがあるのか、と言うわけだ。

諸葛誕はわずかな手勢で持って撃って出て斬られて死んだ。彼の部下数百人は捕らえられ、降ることを勧められたが皆「諸葛公の為に死ぬのだ。心残りはない」 と全員斬られて死んだ。

反乱は甘露3年(257)の2月にまで及ぶ大事であったが、これを平定したことにより、魏国内での反司馬氏勢力は一部を除いて潰えたと見ていいだろう。
そして、一部の勢力とすら言えない一部が、司馬氏に対して最後の反抗を試みた。



・魏帝曹髦のクーデター

そもそも制度上のトップにいる皇帝がクーデターと言うのもおかしいのだが、実権の全てを司馬昭が握っているのである。曹髦はその才を「武は曹操、文は曹植 に並ぶ」とまで言われた英才である。誇張やおべっかもあるだろうが、利発で聡明な頭脳の持ち主なのだろう。
皇帝に迎えられた時に14才で、青年としてすでに人格も確立されていれば、今の曹氏の有様を苦々しく思ったに違いない。

諸葛誕の乱を平定した功で持って、相国に任じ、晋公に封じたが前後9度に渡って断っている。普通、これらの恩賞は3度断ってから受けるのが形式なのだが、 それが双方しつこく与え断っているのだ。曹髦は司馬昭の心の内を計って、暗澹とした気分になったろう。


そして景元元年(260)の5月。ついに司馬昭を除くために、魏帝曹髦が兵を挙げた。その大半は近衛兵ですらなく、下僕などであった。司馬昭配下の兵は、 皇帝の「武器を捨てよ!」の声に、皇帝の威光に武器を捨てる始末。混乱する中、賈充が成斉・成倅(せいさい)兄弟をけしかけて、その矛先の前に魏帝曹髦は 命を落とした。

事を起こすにあたり曹髦は侍中王沈、尚書王経、参騎常侍王業を召し寄せて「司馬昭の本心は道行く人でも知っている」と司馬昭を除く旨を相談した。
この3人もすでに司馬氏側の人間なのだが、この辺才能があっても皇帝という一種の世間知らずな温室育ちの甘い考えが見える。
元より司馬昭に反抗しても敵うはずは無く、3人は諫めたが、曹髦は聞き入れずに遂に事を決した。

始めから皇帝に気を許していなかった司馬昭は、皇帝の近衛兵ですら数を揃えずにいて、曹髦は下僕まで使って反乱を起こしたのである。始めから悲劇でしかな かったのだ。皇帝弑逆の罪は全て成斉兄弟に押しつけ、事の決着を付けた。
成斉は自分だけに責任を押しつけられ、殺されるのを拒んで、屋根の上に登って逃げ、司馬昭らの悪言雑言を喚き、矢で射られて殺されるに到った。


常道郷公陳留王曹奐が最後の皇帝に迎えられて4年目の景元4年、蜀の景耀6年(263)ついに司馬昭は意を決して蜀へ侵攻する。
征西将軍ケ艾、雍州刺史諸葛緒、鎮西将軍鐘会が大軍を持って蜀に攻め入った。前年も蜀将姜維がケ艾と戦っており、連年の出兵による蜀の疲弊を好機と捉えた のであった。

姜維は漢中から退いて剣閣で鐘会を防いだが、ケ艾率いる一軍が、陰平の道無き街道を山に穴を開け登って攻め入り、益州に侵入し江由から綿竹へと進み、諸葛 亮の子、諸葛瞻を破って蜀都成都へ迫り、遂にこれを下した。

鐘会は密かに蜀で自立と反逆を企て、諸葛緒を罪に落として中央に返し、ケ艾に先を越されたが、専断の癖を反逆の兆しとして監軍の衛瓘に捕らえさせ、結果的 に殺させることになる。
鐘会は降伏した姜維と共に反逆を起こすが、結局配下の兵卒が背いて殺され、司馬師は事なきを得た。

蜀が滅んだ翌咸煕元年(264)司馬昭は晋王となる。いままで拒み続けた爵位昇進も、蜀を滅んで頃は良しと見たのだろう。
魏王朝でも司馬氏政権は確立していたが、それとは別に自分の幕下、晋王を中心とする官制を整え、遂に晋王朝を建てようとした矢先、司馬昭が突如として死ん だ。
咸煕2年(265)野営先での急死であった。すでに父の右腕として司馬炎が晋王の太子として定まっていたので、司馬炎が魏から晋への禅譲と晋王朝による呉 の平定による全国統一が課せられることになった。


その前に、孔明亡き後の蜀を見てみようと思う。




−蜀の趨勢と 劉禅の降伏−


・孔明没直後の混乱と蒋琬の輔政

蜀の建興12年(234)五丈原で蜀の丞相諸葛亮こと孔明が陣中にて没すると、その退却を巡って蜀軍内の争いがにわかに表面化する。
元々孔明とソリが合わずうまくいってなかった魏延が、孔明の遺言によって長史の楊儀が軍を取り仕切って退却したため、長史の楊儀ごときの下で働けるか、と 命令に従わなかったことから生じた。

長史とは三公や丞相など高官の秘書とも言うべき官で、諸将を取り仕切ったり、側にあって事務周りなどを担当する文官である。

楊儀は偏狭な男であったため、当時蜀の武官でトップの魏延とは反目しあう間柄であった。孔明存命中は、魏延も孔明を立ててはいたが、その孔明亡き後、なぜ 楊儀ごときに、と言う気持ちから楊儀の指揮下に入ることを拒んだ。

結局、楊儀は馬岱に命じて魏延を撃たせたが、楊儀も翌年には官を剥奪され、自殺するに到る。
孔明は自らの後継者に蒋琬と費禕(ひい)を指名し、孔明の跡を蒋琬が継いだ。楊儀は軍を無事退却させた功に魏延を討った功、それに平素から孔明の外征に付 き従っていたので、自分がその任になるだろうと思っていたら、後輩の蒋琬が大将軍・益州刺史・録尚書事を兼任してしまった。
そして楊儀自身は中軍師と昇進はしたが担当職務が無いという、よく言えば名誉職、悪く言えば閑職に回されたのだ。それ以来、不満の声を露わにし、周囲の人 は遠ざかっていった。費禕だけは慰問に訪れたが、ある日費禕に不満をぶちまけた挙げ句、「これなら丞相が無くなった時に魏に降っていた方がマシだ」と漏ら したために官職を剥がれ庶民となったが、それでもなお上書して不満と傲慢に満ちた上訴をしたために遂に郡に捕らえられて、牢で自殺した。


とんだ顛末であったが、延煕元年(238)蒋琬は漢中に赴いて将軍府を開き対魏戦線の指揮を執った。蒋琬は姜維に命じて、たびたび西方に出陣した、とある から恐らくは隴西(ろうせい:今の甘粛省など)方面に出征したとみれる。
姜維は元々天水の出身であったので、地理には明るいから任されたのであろう。孔明が度々目指した祁山も天水郡である。羌族の事情にも詳しいとの自負もあっ たが、成果と言える成果は無かった。

延煕7年(244)魏の曹爽が大軍でもって蜀に攻め込もうと国境にせまった。
蜀では漢中を守っていた王平が寡兵ながら打って出て、その間に援軍の費禕が到着し、曹爽は大敗して軍を退いた。

蒋琬は孔明が度々出征していたが結果を得られなかったのは、道が険阻で補給もままならないために成功しなかったのではないか、と考え、孔明に習って西(北 方)に出るよりは、河を利用して東に下り、魏興や上庸を目指す方が成功しやすいのでは、と考えていた。
船舶も建造し準備も進めたが、蒋琬の持病が度々発症したので、計画を移せないでいた。

しかし多くの諸将の意見は、水を下るは安く退くは難しいから、もし勝利出来なかった場合の危険が大きい、との意見が多く、蜀朝もそれを受けて費禕と姜維に 計画の変更を求めた。
結局、当初の既定路線の通り、西方に姜維を派遣して、蒋琬は姜維が勝利を得ればその後に続き、と返事を送ったが、蜀の延煕9年(246)蒋琬は病で亡く なった。



・費禕の輔政

その蒋琬の跡を継いだのは、孔明が遺言で言った蒋琬ともう一人の費禕である。
蒋琬・費禕ともに劉備の荊州からの臣であり、費禕は蜀の名臣董允と名声を等しくしていた。
子細にこだわらず度量は大きく度胸もあって、孔明存命中は魏延と楊儀の間に入って両者を諫めて、蜀軍を中から支えていた。呉の孫権の使者としても立ち、孫 権にもその人徳を認められるほどの人物であった。

費禕も蒋琬の跡を継いで、録尚書事・大将軍として漢中に滞在する。蒋琬、費禕共に政治と軍の最高位であるが、丞相の位に就かないのは、孔明を憚っての事 で、権限等は変わるところではない。
延煕12年(249)この年、魏では司馬懿による曹爽一派の粛正が行われ、このために夏候覇が蜀に亡命してきた。
曹爽に親しく(同じ皇族・準皇族であるから)、叔父の夏候玄が征西将軍で夏候覇の上司であったが、夏候玄も中央に召し返され、親司馬懿派の郭淮が夏候玄に 変わって征西将軍になったために、身に不安を覚えて蜀に下ったのである。

夏候覇の父夏候淵は蜀との戦いで戦死しており、彼は蜀に復讐を誓ったのであるが、夏候覇の従姉妹が張飛の妻であり、その娘が蜀の後主劉禅の皇后であったた めに、蜀では喜んで夏候覇を迎えた。彼は厚遇されて車騎将軍にまで出世する。

延煕16年(253)の正月、大宴会を開いて費禕は強かに痛飲し、酔ってしまった。その時、魏の降将郭循によって刺殺されてしまう。
彼の度量が大きく、物事の子細に注意を払わない性格が生んだ油断であったと言えよう。



・姜維の出征と蜀の滅亡

蒋琬・費禕の跡を継いで重責を担ったのが、姜維である。度々魏との国境争いや、大規模な侵攻もあったが、蜀の守りは堅く、また姜維が出征を願っても費禕は 1万を超える人数は与えなかったから、それほど国力の低下は見られなかった。

姜維は掣肘を加える相手も居なくなり、かねがね羌と結んで隴西を攻めれば、隴西以西は魏から切り崩せると考え、兵法にも通じ武勇にも自負するところがあっ たので、その費禕の亡くなった夏、漢中より兵を率いて南安郡に攻め入った。
城を囲んだが、魏の雍州刺史の陳泰が、包囲する姜維の退路を断つ気配を見せたので、兵糧も尽きた姜維は退却した。

翌延煕17年(254)隴西に出陣し、魏将徐質を斬り、侵攻すると県ごと降伏したり、降伏した敵兵など多数を引き連れて漢中に帰還した。
延煕18年(255)前年の戦果を受け、夏候覇と共に出陣。雍州刺史王経がこれに応じて来たが、王経は大敗を喫して数万の死者を出し、狄道城に逃げ込ん だ。
姜維・夏候覇はこれを囲むが、魏の征西将軍の陳泰が援軍として包囲する蜀軍と戦い、王経を救った。破れた姜維、夏候覇は軍を退く。

延煕19年(256)姜維は鎮西大将軍の胡済と上邦(天水郡)で落ち合う約束をしたが、胡済は来なかった。侵入してきた姜維に対して、魏はケ艾が押し寄せ た。姜維とケ艾は段谷にて会戦し、姜維は大敗。多数の戦死者を出し、人心は動揺した。孔明に習って姜維は位を下げ、罪を謝した。

延煕20年(257)魏では諸葛誕が反乱を起こした年である。蜀はこの隙に攻め込もうとし、姜維は数万の兵を率いて攻め入った。沈嶺の城に魏は多数の食料 を貯蔵していたので、魏は司馬望(司馬懿の弟、司馬孚の子)とケ艾が駆けつけて守りを固めた。姜維は挑発を行ったが、決して打って出ず、その内諸葛誕の反 乱が鎮圧されたために、退かざるを得なくなった。

景耀5年(262)姜維は一軍を率いたが、ケ艾に撃破された。姜維はそのまま陰平郡の沓中に留まった。姜維は元降将で、自分の派閥を築くことも無かったた め、連年の出征で蜀の朝廷内では宦官の黄皓が劉禅に取り入り、それと右大将軍閻宇(えんう)が結託していた。そして黄皓が閻宇を姜維に取って代わらせよう と、密かに策謀していたのである。
姜維は都に返ると変事が起こるかもと危惧を抱き、都(成都)には戻らずに、駐屯地に留まったのである。


その翌年、景耀6年(263)ケ艾が蜀に侵攻してくる気配が強まったので、劉禅に上表して援軍と守りを固めるように願った。
魏がケ艾を始め、雍州刺史諸葛緒、鎮西将軍鐘会をも動かして、大攻勢に出る前触れである。


しかし、蜀の朝廷では、宦官の黄皓が巫女に占わせ「魏は侵攻してこない」と占いに出たから、と劉禅を言いくるめて援軍を送らなかった。朝廷の緒官は、まさ か占いで援軍派遣が中断されているとは思いも寄らない。

ケ艾が沓中、鐘会が駱谷に大軍で侵攻してきて初めて、蜀朝は慌てて右車騎将軍の廖化を姜維の元に派遣し、左車騎将軍張翼、輔国大将軍董蕨(とうけつ)を漢 中に送り魏の侵攻に備えさせた。

姜維はケ艾、鐘会の他に諸葛緒の雍州軍が建威に向かっていると聞き、沓中からそれを防ぐべく移動し、途中廖化の軍と合流する。沓中は蜀領で最西北で漢中は 東に位置し、その間が建威である。
その姜維の軍をケ艾が背後から襲い、姜維はこれと戦うが破れて陰平に一旦退いた。

漢中には漢城・楽城の2つが守りのために築かれており、守りは堅いので、鐘会はこの漢・楽の両城を攻撃すると同時に、漢中から蜀への入り口である陽安関 (演義では陽平関)にも兵を送って攻めさせた。
陽安関は蒋舒(しょうじょ)と傅僉(ふけん)が守っていたが、蒋舒は出陣したまま魏の先鋒胡烈に降伏してしまう。姜維配下で度々勇戦した傅僉は、力戦した が衆寡敵わず討ち死にする。

鐘会は陽安関が落ちたと聞いて、漢・楽城を捨ておき、そのまま陽安関に進む。
沓中で破れ、陰平でケ艾に備えていた姜維と廖化は、漢中が危ういと知り、陰平を捨てて退却していた所で、張翼と董蕨が漢寿に到着、これと合流した。


ここで陽安関が落ちた事を知り、姜維等は剣閣に籠もって鐘会を防ぐことにし、剣閣に急いだ。


この時魏軍内では鐘会が軍を自ら掌握しようと、雍州刺史諸葛緒を陥れて、中央に召し返させ、その軍を吸収している。鐘会は胸中に秘める野心があったので、 この出征にあたっては非常の決意で挑んでいたのだ。蜀の険しい道を進軍するため、先陣を許儀に命じて道を整え橋を架けさせたが、その橋に穴が開き馬の足が 穴に落ちたため、許儀の怠慢を咎に斬り捨てた。許儀は曹操の股肱である豪傑許緒の子である。功臣の子ですら容赦せずと、将兵に対して命令に絶対であると軍 の掌握に勤めた。

一方、もう1人の魏将ケ艾は剣閣は容易に落ちないと考え、陰平方面から直接益州に侵入しようと考えた。言葉で書くのは簡単だが、益州の周囲は四川盆地を囲 むように高山が連なって峰となっており、道を知るものですら容易でなく、長安から蜀に到る道ですら蜀の桟道として、山を削り垂直の崖に穴を開けそこに横木 を通して道にしている程なのだ。

しかし、ケ艾は崖を登り、時には毛布を厚く身にくるんで崖を転がって、道無き道を進んだ。
遂にケ艾の先陣は梓潼郡(しどうぐん)の江由に出た。驚いた蜀将馬邈(ばはく)は魏軍にすぐに降伏してしまう。蜀は涪県に孔明の子諸葛瞻(しょかつせん) が居たが、涪から要害である綿竹関にまで退いてここでケ艾を迎え撃った。

諸葛瞻は孔明の子と言うことで、人々は皆慶事や優れた事があると「皆、葛候がなさったことだ」と名声のみが先行していた。ケ艾は「降伏すれば上奏して瑯邪 王に封じてやろう」と降伏を呼びかけたが、諸葛瞻は激怒して使者を斬り捨て、ケ艾を迎え撃った。
息子の諸葛尚と共に綿竹で、ケ艾の先陣であるケ艾の子ケ忠と師纂(しさん)が攻めたのを一度は防いだが、ケ艾が破れて戻った2人を斬ろうとすると、2人は もう一度陣に戻って攻め、遂にこれを破った。


諸葛瞻親子は奮戦したが敵わず親子共に戦死。


剣閣の姜維以下は、鐘会の降伏勧告もはねつけ、魏の大軍を相手に全く寄せ付けずに戦っていた。事実、鐘会はこのまま戦っても勝算は無く、兵の被害も多く兵 糧も尽きようとしたので一度軍を返そうかと考えたほどである。

しかし、そこに諸葛瞻が綿竹で敗死したとの情報が入り、さらに劉禅以下が成都にて籠城しているとか、南に逃げたとか、呉に亡命したとか情報が錯綜したた め、姜維等蜀軍は剣閣を退いて蜀の都、成都に向かった。

蜀の皇帝劉禅はケ艾が迫った事を受けて、光禄大夫譙周(しょうしゅう)の降伏論を入れて、いとも簡単にケ艾に降伏した。降伏の日、劉禅の5子劉ェ(りゅう じん)が妻子を自らの手にかけ憤死したことが、わずかに蜀の人の心を慰めている。
姜維は成都に向かう途中でその報に接し、次いで劉禅からの勅使から降伏の旨を受ける。将兵は憤激のあまり刀を石に叩き折って亡国を悲しんだ。

姜維は鐘会の元に赴いて軍門に下り、鐘会が「来るのが遅かったようだな」と言うのに威を正し涙を流して「私には早すぎました」と返したので、鐘会はその人 物を認めて親しんだ。




・鐘会の野望と姜維の秘策

史家の評に言えば、この時ケ艾は補給も無く、数日成都が持ちこたえれば姜維の軍と挟撃されて、また違った結果になったであろう、との見方も強い。
しかし後方に鐘会が迫ってくるのは明らかで、ケ艾を倒せたとしても、その後の結果に楽観は出来ないだろう。

ともあれ、劉禅以下はケ艾に降り、劉禅は後ろ手に棺を引いてやってきたが、ケ艾はこれを壊して劉禅を許し諸官と諸将も許した。
ケ艾は専断権を行使して、劉禅を行驃騎将軍、太子を奉車都尉など、他の諸王諸官も任じて、自分の司馬である師纂に益州刺史を兼任させた。ケ艾は敵味方の戦 死者を一緒に葬らせ、軍の規律を引き締め略奪を禁じたので蜀の人民はケ艾を讃えた。

ケ艾と鐘会を比べれば、直接蜀を下したケ艾の方が功は抜きん出ており、鐘会が1万戸の加封であったのに、ケ艾は2万戸で彼の子も候に取り立てられている。


魏の、というよりは実質すでに晋と言って良いだろう、臣の中で最大の功績をあげたケ艾は、おごり高ぶる言動が目立つ。
「諸君はわしにあったおかげで、今日の日を迎えられるのだ。もし呉漢(後漢の祖光武帝の将軍で猛将)のような男であったら、生きて会えなかっただろう」と 蜀の諸官に言ったり「姜維は当代の英雄だが、わしと出会ったために追いつめられたのだ」と高言しては、周囲の嘲笑を買うほどであった。

功績の大きさを考えれば、彼の増長も仕方ないが、ケ艾はここで一気に呉に侵攻すべしと述べている。
蜀で軍船を建造し、河を下って攻め入るべし、と自らその任に当たりたいと上奏した。

主を震わす功臣が報われることは少ない。狡兎死して良狗煮られ、高鳥尽きて良弓蔵われる、との通り、主君にとっては報いきれない功績を立てた家臣は、自ら に執って変わられる危険性が大きい。
そのため、戦国時代秦の白起は功績を立てながら自ら命を絶つ羽目になり、伍子胥は呉王を覇者に仕立て上げたが死を賜った。楽毅は小国の燕の恥を雪ぎ強国斉 を追いつめながら反間で疑われて、九仞の功を一簣に欠いた。

同様に、蜀を平定した功に加え、劉禅や蜀臣に独断で処断し、尚かつ呉の平定も目論むとなれば、司馬昭が危険視することも無理はないだろう。
また、そうと見て鐘会は司馬昭に、「ケ艾に叛気あり」と司馬昭に忠告の上訴を諸将の連署で送り、これを受けて司馬昭は軍監の衛瓘(えいかん)にケ艾を捕縛 させた。

鐘会の計略では、ここで増長しているケ艾は、衛瓘の言うがままにはならず、逆に衛瓘を殺すはず。そこで軍監を殺すことは、即ち謀叛である、とのことでケ艾 を撃ち、自分に与しない将校を殺した上で、蜀の地を基盤に司馬昭に対して反旗を翻す腹づもりである。

自らの才覚に加えて、晋の主力は自分が擁しており、また姜維は進んで鐘会に接して腹心の如く振る舞ったので、蜀軍を加えて上手くいけば司馬昭に取って代わ れ、失敗しても蜀で自立することは出来る、と読んだのだ。
姜維は姜維で、鐘会の野心を早くから見抜き、鐘会に謀叛を起こさせた上で、成功の直後に鐘会を討てば、蜀の再興が適うやも、と一大逆転を狙っていた。


それぞれの思惑が渦巻く中で、衛瓘がケ艾逮捕に向かう。


衛瓘はすでに、自分に下された命令、即ちケ艾逮捕であるが、これに対してきな臭い物を感じていた。そこで彼は一計を立て、「上意によってケ艾を逮捕する が、その他の者には一切のお咎めはないのだ」とケ艾の将兵に喧伝しておき、ケ艾の元へ赴いた。
ケ艾は鐘会の予想に反して、部下に対しても「軽々しく事を起こしてはならない」と戒めた上で、大人しく長安の司馬昭にまで送られて行った。
司馬昭が都である洛陽から長安に来ていたのは、ケ艾がもし大人しくせず軍を持って反したら、との建前であったが、その真意は鐘会に対しての備えであった。
司馬昭は10万の兵と共に長安に駐屯する。


鐘会は、自分の策と違う結果、ケ艾も衛瓘も生きており、司馬昭が長安にまでやってきていることに驚愕する。自分の計画が失敗しただけでなく、司馬昭に気づ かれたとの不安を強く抱いた。
成都でケ艾が逮捕され監車で護送されて行った翌日、鐘会は成都に乗り込む。
鐘会は司馬昭の配下で数々の計略を献策、これを尽く的中させてきた。また筆跡を真似るのが巧く、それでもって郭太后の偽書でもって、「郭太后の勅命によ り、君側の奸を除く」と諸将に示した。

しかし鐘会旗下の諸将の動揺は予想以上で、容易に従いそうにない状況になる。
鐘会は諸将が逃げられないようにはしていたが、従わない諸将に対して側近が「将校を殺してしまうべき」と促したが、鐘会は決断に迷った。

鐘会直属の旗下の丘建は元胡烈の部下で、胡烈の推薦で司馬昭から鐘会に付けられていたのだった。丘建は胡烈の従卒を通じて、外の将兵、つまり閉じこめてい る諸将の部下に、身に迫る危険を知らせた。

胡烈の子、胡淵が胡烈の兵を引き連れ、陣太鼓を鳴らしながらやってくると、それを期として他の将兵の部下も集まって押し寄せた。
陣太鼓と将兵の迫る音を聞いて、鐘会は姜維に「どうすればよいのか」と聞いたが姜維はただ「攻撃するだけです」と応じるのみ。
この時になって、鐘会は閉じこめておいた諸将を殺そうとしたが、閉じこめた内から机で押さえつけられ、容易に果たせない。
そうこうしてる間に、外から兵が押し寄せ、鐘会や姜維を始め、皆殺されてしまった。

また護送中のケ艾は、鐘会の謀叛が明らかになり、ケ艾が無実となるとケ艾を捕らえた自分の身が危ういと考えた衛瓘が、部下に追い掛けさせてケ艾とその子ケ 忠等を殺してしまう。

ケ艾は結局謀反人扱いで、その子や子孫も奴隷になり、晋が統一帝国になってからその名誉が回復されたが、それはまた後日の話。


蜀の滅亡に際して、非凡な人間、ケ艾・鐘会・姜維が、その才に似つかわしくない死に方をしたが、才能ある人間でも、いや才能があるからこそ、その死に方が 難しい事を実感させられる。

一方、平凡な劉禅は司馬昭の元に送られ、洛陽に着くと安楽県公に封じられた。魏の成都侵攻の翌年、景元5年(264)のことである。
始めは警戒され、宴会の席で蜀の楽曲を演じさせたが、劉禅の側近は目頭を押さえても、当の劉禅本人は平然と笑っている始末。
司馬昭は賈充に「人の無感動もここまでとは。諸葛亮でもこの人を補佐するのは難しいだろう。まして姜維では」と評した。賈充は彼で「だからこそ、蜀を併呑 できたのです」と返す。

司馬昭はまた別な日、劉禅を訪れて「蜀が恋しいですか」と訪ねたが、「ここは楽しく蜀を思い出すことはありません」と答えた。
元蜀臣の郤正(げきせい)がこれを聞いて、「もし次同様のこと訪ねられたなら、どうか涙を流しつつ”先祖の墓が隴・蜀にあり、西を向いては一日として思い 出さない日はありません”と答えて目を閉じられるように」と言い含めた。
その後日、司馬昭が訪ねてきたところ(司馬昭はしばしば気にかけていたようだ)、また同様の質問が来たので、郤正の言う通りに答えると「まるで郤正の言葉 と同じですな」と司馬昭が言うので、劉禅は驚いて目を見張り「まことにおっしゃるとおり」と言うと司馬昭の側近は大笑いしたという。司馬昭はこれで完全に 劉禅に対して警戒を解いて、劉禅は晋の時代泰始7年(271)に大往生している。

蜀臣は郤正なども列公に封じられ、張飛の子張紹も降伏文書を届ける役を担ったが同様に列公となった。彼の母親は夏候氏で、わずかだが魏の皇族の血が流れて いることを考えれば、大変感慨深い。




−蜀滅亡後の 司馬氏と晋−

蜀を滅ぼした司馬昭は、景元5年(264)5月に改元して咸煕元年とし、晋王となる。王の上は帝位しかない。
司馬昭は爵位を整え、それぞれ報償としてそれを授けたが、これは魏が王朝を開く際に九品官人法を整えたのと同じで、漢朝から魏朝に移っても、その身分を保 障するとの意味合いが強い。
すなわち制度の上でも、魏から晋へと移る準備が着々と進められているのだった。
各地より瑞祥が続々と報告されたのは、民心を魏から晋へ移行した際の動揺をを押さえる目的だろう。


こうして、魏から晋への禅譲の準備は、瞬く間に進められた感が強いが、最早既定路線であることは疑いない。蜀平定の前年には、司馬懿以来、司馬氏に利用さ れてきた郭太后も亡くなっている。蜀を平定した勢いで、そのまま帝位に就こうとするのは、当然と言えた。
9月には晋の太子、司馬炎は撫軍大将軍、司馬懿以来の司馬師・司馬昭が就任した名誉職である、将軍職に任じられている。

こうして急速に晋帝国誕生の準備が整えられつつある最中、咸煕2年(265)8月、司馬昭が突如亡くなる。
太子であった司馬炎が、相国・晋王の位を継いで、司馬昭の亡くなったその年の12月、魏帝曹奐は遂に晋に禅譲を果たし、魏王朝はここに終演を告げ、晋王朝 が開闢されるのである。




◎参考文献
・陳寿『正史三国志』1993 ちくま学芸文庫
・川勝義雄『魏晋南北朝』2003 講談社学術文庫
・福原啓郎『西晋の武帝 司馬炎』1995 白帝社




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