一部表記外字があるので了承して下さ
い。誤字脱字はご一報を 西暦264年、魏の司馬昭は鐘会、ケ艾等を派遣し蜀を 制圧する。蜀占領後、鐘会は、ケ艾を陥れ自立を目論むが、失敗。蜀の最後を担った姜維もその争乱に巻き込まれて、彼らは死んでしまった。 司馬昭は鐘会の野心は承知の上で、その野心が自らを滅 ぼし自ずと決着が着くだろう、と当初の計算通りに終わった。 蜀を併呑したことにより、頃は良しとみた司馬昭は、遂 に晋王の位に昇る。そしてそれはその先、今は形だけの帝位に就いている曹氏からの禅譲を決意したことを意味していた。 司馬氏の体制を整え、帝位が目前に迫った蜀滅亡の翌年 8月、突如司馬昭が野営先で急死する。55才であった。 司馬昭の右腕でもあり太子でもある司馬炎が、司馬昭の 跡を継ぎ、12月魏帝曹奐に譲位を迫り、ついに司馬氏の帝国、晋帝国が立てられた。 咸寧6年(280)に呉を滅ぼし中国全土を統一する が、永嘉5年(311)に匈奴族の劉淵・劉聡親子が洛陽を陥落させ、3代皇帝懐帝(司馬熾:しばし)が捕虜となって、ついに晋は帝国としての体を成さなく なる。懐帝が殺されるのに2年の時間があるが、晋の滅亡という意味においては、この時点だと言って間違いはない。 司馬懿の子で司馬師・司馬昭の弟司馬伷(しばちゅう) の子司馬睿が、孫氏の旧呉において担ぎ出されて晋国が再建されるに到るが、すでに統一帝国でなく地方政権でしかなかった。 司馬炎を太祖とした晋を西晋と呼び、司馬睿(しばえ い)を中興とする晋を東晋と呼ぶ。 呉を降してからわずか30年余り。蜀を滅ぼし晋帝国建 国から数えても、わずかに半世紀に満たない。 司馬懿以来、着実に権力を得、華北即ち中央の政界・論 界において常にリードし、世論と衆望を集めてきた司馬氏が、何故このような短命な帝国に終わったのだろうか。 前編にも記したように、逆に言えば後漢以来の争乱の中 で、唯一晋帝国が全土統一された例外的期間であった。それ以前も以降も隋帝国が出現するまでは、群雄割拠の戦乱の時代なのである。 この後編では、孫呉政権の滅亡と晋の全国統一、そして 西晋の崩壊に到るまでを、後漢以来の争乱の流れと共に、何故そのような結果を生む結果になったのかを見ていこう。 ※長いのでリンクを張って読み分け出来るようにしてあ ります。 ●孫呉の崩壊と江南地方政権 ●晋の統一政権と崩壊の兆し ●八王の乱と晋帝国の崩壊 −孫呉の崩壊と江南地方政権− ・孫氏と呉の 興隆 後漢末期の混乱の最中、呉郡富春で古の兵法家孫子の子 孫と言う孫堅は、若くして海賊を1人で討ち果たし武名を上げ、地方で争乱を起こす群盗を攻め降して功績を立てた。黄巾の乱が起こり天下が大混乱に陥ると、 後漢政府は車騎将軍皇甫嵩、中郎将朱儁に黄巾賊討伐に赴かせる。 朱儁は、孫堅を自軍の司馬に任命し、孫堅はここでも武 名を上げる。後に長沙太守に任じられると、荊州の賊を次々に攻め滅ぼし、破虜将軍に任じられた。 黄巾の乱が収まりを見せ始めると、董卓が朝廷を我が物 として、またしても天下は騒然とするが、天下の諸侯と争う董卓が恐れたのは孫堅の武勇であった。 孫堅は袁術と組み、荊州の劉表と争っていたが、敵将黄 祖を破り襄陽に包囲していた最中、単騎で見回っていた所、矢に射られて死んでしまう。孫堅はこの時37才である。 孫堅が死んだ時、子の孫策は17才であった。袁術の元 に身を寄せていたが、袁術は猜疑心が強く、また非常に吝嗇であったため、孫策に父孫堅の兵をすぐには返さずにいた。 若かったが江南(長江の南だから江南。荊州や揚州全体 を指すが、その東の揚州如いては呉を江東と呼ぶ)の名士とも積極的に交わり、江東の周喩や、張紘や張昭など彼と親しみ、その配下に入ってきた。 袁術から父の旧臣等千人余りを取り戻した孫策は、江東 の地に向かう。江東の丹陽太守が叔父呉景であり、賊軍の攻撃を度々受けていたのを救う名目である。 行くところ敵は無く、わずか千の兵は江東に着くまでに 5千となり、敵を破り威名を轟かせるとその数は益々増えた。軍令は厳しく、行く先々で孫策は歓喜の声でもって迎えられた。厳白虎、劉繇などの孫策に反抗す る旧勢力を平らげ、孫策は呉候に封じられた。 皇帝を僭称した袁術を攻め、袁術が滅ぶと北方の徐州に 攻め、さらには曹操と袁紹が覇権を争う間隙を攻める勢いを見せるに到る。 その勢いは曹操ですら脅威に感じるほどであったが、旧 呉郡太守許貢の食客に、狩猟中に襲われて急死した。父よりも若い26であった。 「中原の地は今混乱の中にある。呉越の地と軍勢と、三 江の堅い守りをもってすれば、成り行きを見守りつつ、隙を見て行動を起こすことが出来る。どうか俺の弟をよく補佐してやってくれ」 死ぬ間際、孫策は群臣にそう言うと、孫権に印綬を授け て、江東の地を弟に託した。 「江東の軍勢を総動員し、敵と対峙しつつ機を見て行動 を起こし、天下の群雄と雌雄を決するのは、お前はこの俺には及ばない。しかし、賢者を取り立てて能力ある者を任用し、彼らに喜んで力を尽くさせ、江東を 保っていくということでは、お前の方が俺より上手だ」 父の孫堅は後漢末の争乱で武名を揚げ、その武名を受け て孫策は江東の地に覇を唱え、父の武名と兄の力を受け継いだのが孫権であった。 ・呉越の地と 山越 「桃源郷」という言葉を知っているだろうか。仙人にな れば行ける理想郷だとか、単に理想郷と言う意味で今日使われている。 後の晋の時代、荊州の武陵郡での話。 1人の漁師が河に魚を求めて漁をしていた。そうこうし ている間に、山峡の深い所へ来てしまい、見覚えの無い所にまで来てしまった。見渡すと桃の木が華やかに彩っており、こんな所があったのか、とその一番奥に までたどり着いた。船を下りてみると、人が1人やっと通れるぐらいの穴がある。 しばらくそこを進むと次第に開けて、そこには立派な畑 や家が建ち並んでおり、犬や鶏の声も盛んで豊かな村であった。 村人の格好を見ると異国人のようで、驚いている漁師に 村人が気が付くと、「お前さんはどこからきなすった」と興味を持って村人が集まってきた。 漁師は1件の家に通されると、大変歓迎されて、村人か ら色々質問された。 聞けば、この村の先祖は秦時代の争乱を山の奥深くに逃 れて、ここに移り住んだとのこと。驚いた事に、その後の漢やら晋の事も知らなかった。 村人は外界からの客人を持てなすこと一入で、結局漁師 は4、5日も居てしまう。その村を去るときに村人から「くれぐれも私どもの事を他言しないでくだされ」と言われたが、漁師は所々に目印を付けておいた。 無事帰った漁師は、郡の太守にこのことを付けると、太 守も大層関心を持ち、そこへ案内させたが、その目印は何一つ発見出来なかったと言う。 これが陶淵明の『桃源郷記』に記されているあらましで あるが、この話は単なる逸話や寓話ではない。 この話が何を物語っているのかというと、それは荊州や 揚州、古くは楚の国や呉の国、越の国と呼ばれた地域であるが、古来中国の春秋戦国時代にあっては、これらの地は未開の蛮地として認識されてきた地である。 秦と漢を経て、漢民族の支配下に入った比較的新しい領地であった。荊州は中原から南に下った地でもあり、その主劉表は漢室に繋がり、中原の争乱を逃げて来 た士大夫も多かった。 しかし呉や越と呼ばれた江東にあっては、先の桃源郷の 話に出てくるような、中央の役人でも把握出来ない山奥の地が、後漢末や三国時代にも多数あったのである。 そしてそこには不服従民が群を成しており、彼らの多く は先住民であり異民族であった。彼らの事を”山越”と呼び、華北にあっては匈奴が代表する異民族のように、南方では山越が悩みの種でもあった。 こうした山越は、揚州やそのもっと南方に点在してお り、その1つ1つは数万もの人数を擁している事も珍しい事ではなかった。彼らは自らの領地、今風に言うなら権利を守る為に一致団結していたのである。 そして漢民族の側も、彼らが度々襲って来る(もちろん 逆もある)ので、自分たちを守るために団結するしかなかった。 こうして江南の地は、それぞれが自衛のためにまとまざ るを得なくなり、例えば朱氏、陸氏、虞氏、賀氏と言った大豪族がそれぞれ領地を守っていた。彼らは自衛のために兵を養わねばならず、兵を養うためには自ら 耕作する地と民を持って居なければならなかった。 そしてそれらの大豪族は、自分たちをより安全に、また より強くまとまる者は無いかと模索する。彼らにすれば呉や越と言った江東全体を覆うような強力な政権が欲しかったのである。そこに現れたのが、孫策であっ た。 江東の地に颯爽と現れた孫策は、その整然とした軍と高 いモラル、そして何より孫策の持つカリスマ性に強烈に惹かれて行った。 自分たちの命運を預けるのは彼しかいない、と孫策の配 下に続々と加わって行く。孫策はそれらを全て受け入れ、軍役に就くのもは租税を免除、前歴は一切問わないとしたために、山越などの不服従民も多く従った。 内外の山越も多数討伐して、その配下に組み入れ、孫策 はその力を強大にしていく。 もちろん、山越を配下にと言っても、ごく一部である。 何故なら孫権が孫策の跡を継いでも、山越を討伐することは止むことがなかったのである。これは孫権が帝位に就いて、しばらくして少し落ち着いた、と言う程 度でしかないのだ。 このようにして成立した呉の政権は、魏の曹操、蜀の劉 備とは性格が異なる。 華北の名士や漢の旧臣や貴族と言った士や、彼らの間で 名声を得た知識人が中心となって政権を構成した魏と蜀に対して、孫氏政権は孫策に対しての絶対的な信頼感、即ち個人的な繋がりが構成の中心的な役割を果た す。 劉備が関羽や張飛と義兄弟の契りは有名であるが、この 繋がりは無頼任侠的とよく言われる。これは劉備と関羽・張飛という個人の間だけの話であるが、呉の場合は孫策とその配下全員、豪族達やその配下の兵なども 豪族との間に、そういう無頼任侠的関係があることを考えれば、呉のトップからその下部までが、その関係で繋がっている主要因であるのだ。 孫策が跡を託したのが実子でなく弟の孫権だったこと も、引いてはまだ幼い我が子では、それら大豪族の支持を集める事は難しいが、孫権ならば自分と同じく彼らが認めることが容易いからである。 孫策に次いで孫権が、自分たちの掲げるボスとして相応 しいと認めたからこそ、孫権は呉の君主の地位に就くことが出来たのであった。 ・呉の外交と 陸遜の輔政 孫策の跡を継いだ孫権は、建安13年(208)に曹操 が大軍でもって、荊州と揚州の江南の地平定に攻め入ってくると、赤壁でこれを破った。また荊州益州と瞬く間に制圧し威名の上がる劉備を警戒して、これを牽 制し後に荊州の大部分を呉の領土にするなど、着実にその地位を固めていった。 孫権は赤壁にて曹操を迎え撃った時には周喩、劉備と荊 州で勢力を争った時は魯粛、関羽と荊州を争った時には呂蒙、そして蜀呉同盟を結んで魏に対抗するようになっては陸遜の補佐を得て、外敵からその地を守り、 内憂である山越を制圧し、自軍に編入して呉はその領土を堅く守ってきた。 孫権は、曹操・曹丕に対しては藩臣と称し、曹丕が皇帝 の地位に就いてからは呉王に封じられたが、外交上の駆け引きの話で、魏と呉は赤壁以来、荊州や徐州方面でも大小の戦いが行われている。 赤壁の余勢を駆って、孫権は自ら徐州の合肥を攻め、周 喩は荊州の曹仁等と争った。 建安18年(213)には、前年から曹操自ら孫権討伐 に動き、孫権も自ら指揮をして濡須(じゅしゅ)で迎え撃ち、戦いが繰り広げられた。赤壁の雪辱を晴らす勢いの魏であったが、孫権はこれを退けることに成功 する。 また荊州から益州に伸び、漢中を得て急速に足下を固め る劉備にも脅威を感じ、荊州の領有を巡って劉備とも度々衝突した。 呂蒙に2万の兵を持って長沙・零陵・桂陽郡を攻めさ せ、魯粛には1万の兵で関羽の南下に備えさせると、孫権自身は陸口で後詰めに劉備と本格的な戦端が開かれようとした。 この時は、益州に魏が侵入し、根拠地を失う事を恐れた 劉備から和睦を持って納まったが、この後も劉備とは荊州を争い、また揚州・徐州方面では魏の曹操・曹丕と争った。 孫権は、内に山越を抱えながら、大国魏を北に、荊州を 挟んで蜀を西に、危うい状況を切り抜けたのである。 陸遜は揚州の豪族の1つ陸氏の長で、孫権の兄孫策の娘 を妻に与えられた、呉の準皇族とも言うべき人である。主に国内政策や山越討伐に従事しており、内外の大戦に参加してきた呉の将軍達には軽く見られていた。 豪族としての力は陸氏として大きいが、呉政権下で外 征、つまり将軍の地位にはあらず、妻が孫氏であるから重用されているのではないか、と言うことである。 建安24年(219)に、魏と呉は勢いに乗る荊州の関 羽に共に危惧の念を抱き、共に関羽に当たり、孫権はついに関羽を捕らえその首を刎ねた。 そして黄初2年(221)皇帝の位に就いた劉備は、関 羽の敵討ちを掲げ、呉に大挙して押し寄せた。 孫権は陸遜を大都督に任じ仮節(軍中での処断を認める 印)を授けて、諸将の上に立たせて劉備を防がせる。 陸氏も豪族として呉に根を張っているが、他の呉の諸将 も同じく豪族連中である。陸氏の下風に立つのを潔しとしない感情は多々あった。 夷陵において10万近い劉備の軍を、5万の兵を率いて 一戦でこれを破った作戦能力と見識に、諸将は一目置き、以降陸遜は孫権の右腕として活躍する。 その後、劉備の志を継いだ孔明と呉は、素早く関係修復 に動き蜀呉同盟は復活する。 魏は、荊州の夷陵で蜀呉が争うのを見て、呉が蜀を破っ て逆に侵攻すれば、その隙に呉を攻め取れる、と考えて、その年の秋口には兵を呉に進めた。魏の征東大将軍曹休が水軍を率い、大司馬曹仁は濡須を、中軍大将 軍曹真は諸将を率いて長江中州を攻めるべく、呉軍と対峙した。 呉はこれを退けるが、国内の山越事情もあって、魏を追 撃するだけのゆとりまでは無かった。 こうして、三国創世記の不安定な状況を切り抜けた呉 は、これ以降蜀呉同盟を基本に、国内整備と魏との戦いを本格化させて行くのである。 呉の黄武3年(224)には曹丕自ら呉の広陵(徐州の 広陵郡あたり)に兵を進めたが、徐盛の疑城の計で魏は戦わずに引き上げた。 黄武5年(226)には魏の文帝曹丕が崩御し、その隙 を狙って今度は呉が荊州の江夏に攻めたが、下せずに軍を引いた。 また黄武7年(228)には、蜀の孔明が北伐を行った 年であるが、それに呼応する形で、孫権は鄱陽太守周魴が、魏の大司馬曹休の元に偽って投降させ、曹休を皖城におびき寄せた。陸遜指揮する呉軍はこれを大敗 させ、曹休は賈逵が危機を救い生還したが、敗戦のショックで背中に腫れ物が出来てそれが元で死んでしまう。 その翌黄武8年(229)に孫権は、魏、蜀に並んで皇 帝の位に就く。 孫権は軍事的には魏と五分以上に戦い、君主として多少 の問題がありながらも、陸遜等の換言に耳を傾け、孫権と呉の家臣、つまり豪族との関係は良好であった。 呉の名士の張温は、その名声があまりに高いために孫権 に妬まれ、罪を連座させられた。 また遼東の公孫淵は、度々呉に好を通じて来たが、孫権 は嘉禾元年(232)とその翌年に呉から使者を送った。呉から遼東へは海路黄海から渤海に向かえば、たどり着けるのである。 呉の嘉禾元年の時にはその帰路を魏に遮られ、使者の1 人が討ち取られた。 翌年には、太常の張弥、執金吾の許晏、将軍の賀達に兵 1万を遼東へ使節として派遣しようとした。 呉の丞相顧雍以下朝臣は、重臣とあまりに多い兵を送る ことに、こぞって反対したが、孫権は我を通し公孫淵の気持ちは確かなものであると、これを派遣する。 結局、彼らのほとんどは帰って来れなかった。 翌嘉禾3年(234)蜀の孔明は北伐を起こし、五丈原 で魏と対峙する。孫権はこれを機に魏へ攻めた。司馬懿は孔明と対峙して、呉にまで手が回せないと考えたのだ。 しかし、魏は明帝曹叡自ら東征して、これに当たったた め、孫権は兵を退いた。 度々、孫権は道を違え、国策を誤る事もあったが、陸遜 や諸葛瑾、張昭等の諫言を受け自らを謝して、また曹操・劉備より長命であったために呉の基盤は盤石に思えた。 ・太子孫登の 死と継嗣問題 赤烏4年(241)五月、孫権の長子で太子である孫登 が亡くなった。 呉の皇太子に次子孫和が就いたが、孫権の寵愛は四男魯 王孫覇にあった。 このため太子党、魯王党と2つの派閥が生じて後継者の 座を争った。 当初、皇太子以外の孫権の子を、王に封じるよう臣下よ り上奏されたが、これを退けている。 しかし、孫権自ら退けた事案を破って、孫覇を王に封じ たため、郡の役所も太子党と魯王党の2つ出来る始末で、しかも有力な豪族はそこにまだ仕官していない自分の子弟を送り込んで、勢力を争った。 先に挙げたよう、陸遜は呉の宿将であり、当代の名将で ある。魏の名将や司馬懿と争い、蜀の諸葛亮と知を競うほどの人物であり、呉の忠臣と言える。 呉の初代丞相の孫邵※、2代目の顧雍が亡くなった跡を 受け3代丞相になった、政治と軍事双方の重鎮なのだ。 ※孫邵(そんしょう)はその名はあまり知られていない が、孫策の代から仕え、 張昭と共に呉の朝廷の儀礼を定めるなど、呉の重鎮の 1人である。 北海の人で、華北の名士であり孔子の子孫で有名な孔 融も彼を高く 評価している。 呉書に伝があって当然だが、呉書を記した韋昭の党派 である 張恵恕と折り合いが悪かったために、伝が立てられな かった。 それらに対して諫言し、また直接上奏して任地の武昌か ら孫権を諫め、都に上って直接諫めたいと願ったが、それは果たせなかった。 朝廷の内外、孫権の夫人等の間や、重臣間での争いは激 しく、孫権は孫覇を皇太子に冊立したいと考える気持ちが強くなっていたのだった。 それを真っ向から正論で諫めた陸遜に、孫権は耳を貸さ ず、挙げ句度に重なる諫言に孫権は陸遜を獄に繋いだ。 それだけでは厭きたらず、孫権は朝廷より詰問の使者を 度々送り、遂に陸遜は憤死してしまう。陸遜の他にも諫めた吾粲は誅殺、顧譚は交州へ流罪、建国の功臣張昭の子張休は自殺することになった。 しかも、孫魯を皇太子に立てようと、孫和を幽閉した。 驃騎将軍朱拠、屈晃は顔に泥を塗り、自らを縄で縛って 宮門の前で孫和を許すよう請願した。 他に大将軍諸葛恪(諸葛瑾の子)、会稽太守滕胤、大都 督施績、尚書丁密は太子を守るべく仕えた。 しかし、驃騎将軍歩騭、鎮南将軍呂岱、大司馬全jと息 子全寄、左将軍呂拠、中書令孫弘、楊竺、全公主などが魯王孫覇に阿って、太子党の讒言を繰り返していた。 この問題で呉は国が二分し、太子党のために呉の重臣・ 豪族数十人が殺されたり、放逐されたりした。 無論、このような振る舞いをして心ある忠臣の心が離れ ることは当然である。正史である『三国志』陸遜伝に堂々と「人々はみなこれに対し心中不満をいだいた」とあるほどだ。 結局、この問題は孫覇が誅殺、孫和は太子を廃され、南 陽王に落とされる。 末子の孫亮が太子に立てられ、諸葛恪を太傅(後見役) に任じると、太元2年(252)の4月、孫権は病が重くなり亡くなった。享年71才、大皇帝と追号された。 ・呉の衰亡と 最後の名将 孫権は若くして江東の地を受け継いで、戦乱を切り抜 け、魏と蜀が勃興して勢いの盛んな中を、周囲の補佐と努力に助けられつつも、見事に切り抜けた。 それらの力を尽くさせたと言う点では、名君と言って良 いが、ただその晩節は前半生とは真逆ではないだろうか。 年若い皇帝が、国をまとめて、臣下は力を合わせて若い 君主を盛り立てていこうと言う時に、修復できない傷を家臣の間に残したのである。 太子党、魯王党と呉を二分した争いは、魯王孫覇が死を 賜り、孫和も皇太子を廃されるにあって、終結を見たが、両者の間に生じた亀裂は簡単に納まるものではない。 結局孫権の末子、10才の孫亮が、新皇帝に就いた。 諸葛恪が若き皇帝の輔政として就いて間もなく、魏の司 馬師・司馬昭は大軍を派遣して呉に迫った。 孫権の亡くなった建興元年(252:太元を改元した) の12月、諸葛誕・胡遵が東興に、武昌に毌丘倹、荊州南郡に王昶が軍を進めて迫った。大帝孫権が亡くなった間隙を攻め、呉を一気に制圧しようとの魂胆であ る。 諸葛恪はある程度これを予想し、巣湖周辺を固め、軍を 動員していた。諸葛恪自ら東興に向かい、魏の大軍を迎え撃った。 この戦いで魏は大敗。 翌年、今度は合肥新城に諸葛恪は兵を進めた。前年の戦 勝を受けてのことだった。朝廷では反対する声が多かったが、諸葛恪は強行する。 大軍で合肥を囲んだが、これを攻め落とすことは出来な かった。しかも呉の陣中に疫病が流行り、大勢が病に倒れたので、仕方なく諸葛恪は兵を退いた。 都に帰った諸葛恪は、敗戦の責任を認めがたく、逆に尊 大に振る舞った。 多くの者が病死や病に苦しんだので、軍の内外の人心は 諸葛恪より急速に離れていったため、逆に高圧的になったとも言える。 孫堅の弟孫静の曾孫である武衛将軍孫峻は、この機をと らえて孫亮と計って諸葛恪誅殺の密議を凝らした。孫亮から参内するよう命じられ、その宴席で諸葛恪は孫峻に殺された。 孫峻は単に皇族というだけで、名声も有していなかった が、諸葛恪誅殺の功によって、驕り高ぶった。俄に排斥の動きもあったが、果たせなかった。 呉の五鳳2年(255)寿春で魏の毌丘倹・文欽が背 く。そこで孫峻は諸将を率いて向かったが、その前に毌丘倹は敗れた。文欽は呉に投降して、その軍勢を納めて孫峻は帰った。 この年の秋にまたしても、孫峻排斥の動きが起こる。将 軍の孫儀・張怡(ちょうい)・林恂(りんしゅん)等は失敗して自殺、処刑された。 翌太平元年(256)孫峻は文欽の計を用いて、魏を攻 めようと軍を起こした。しかし、その途中で急死。後事を一族の孫綝に託した。 孫綝が孫峻に継いで権力を握ったと聞いて、呉の諸将は 愕然とする。たまたま諸葛恪を討つ功があった孫峻の時ですら、そうであったが、何の功も才も無い孫綝が自分たちの上に立つことに、早々納得出来るわけがな かった。 呉の名臣呂範の子呂拠は孫峻の陣中にあったが帰還して 孫綝を殺そうと計り、滕胤もこれに巻き込まれた。孫綝が先手を討ち、結局果たせず呂拠は捕まり滕胤は一族皆殺しになる。 また孫憲・王惇が暗殺を謀ったが、発覚して自殺、誅殺 させられた。 太平2年(257)になると、孫亮は親政を行い、しば しば孫綝と衝突することになった。若き青年君主の孫亮は、孫綝の専横を憎み、これを誅殺しようと太常の全尚、将軍の劉丞と謀ったが、逆に孫綝によって退位 させられてしまった。太平3年(258)の9月のことであった。 次に呉の皇帝に迎えられたのが、孫権の6男で孫亮の兄 孫休である。 孫休も呉の問題点、つまり現時点において孫綝の専横を 除く必要性を認識していた。しかしその一門は要職にあって、反対意見を述べる者も少なく、容易には行かなかったので、しばしば孫綝一門に恩賞を与え、当面 孫綝を持ち上げておいたのだった。 孫休は張布と謀って、孫綝誅殺の謀を巡らせたが、これ までの経緯からよほど慎重でなければ成功しないと考え、人選を練った。 孫亮が廃せられる前、魏で寿春の諸葛誕が反乱を起こし た際、孫綝は兵を率いてこれの援護に向かったが、孫綝が到着する前に、魏の司馬昭率いる大軍の包囲は完成しており、これを破ることを果たせなかった。 孫綝は将軍の朱異に5万の兵を授け、強行して破らせよ うとしたが、体制整えていた魏の包囲を破るのは容易ではなく、食料も尽きたので一時退却したが、それを孫綝に責められて、斬られてしまった。 朱異は呉の名将朱桓の子であり、このような振る舞いを すれば、軍部からも反発が強まって当然であった。 孫亮と張布は、建国以来の功臣で軍人畑の名将丁奉に白 羽の矢を立てた。 丁奉は、肝が据わってはっきり物を言い、決断力に富 み、国家への忠誠心を持ち合わせた人物で、彼を密かに召し寄せて計を練った。 丁奉は、孫綝は一門や味方も多いので、慌てて事を起こ せば失敗するだろうと述べ、冬至の後の先祖や神を奉るお祭りの後、家臣一同を集める宴席を設けて、そこへ呼び寄せて殺せばよい、と進言した。 太平3年を改元して永安元年の孫休が即位したその年の 暮れ、臘(ろう)の祭祀の日、孫綝が昇殿した時に武士に命じて捕らえさせ、その日の内に首を刎ねてしまった。 孫綝を殺した功で丁奉は大将軍になり、自分に親しい張 布、濮陽興に政治を任せた。 永安6年(263)冬、蜀から魏に攻撃を受けていると の使者が来たので、丁奉が寿春方面に進撃し、魏を牽制すると共に、荊州方面から蜀に援軍を送ろうとした。 結局、蜀の劉禅が降伏したと聞いて、援軍は中止され た。 その翌年、旧蜀領を攻撃していた呉だったが、孫休は病 が重くなり濮陽興に太子孫ワン(雨かんむりに單)を託した。孫休は30才であった。 張布、濮陽興、丁奉等は孫権以降の呉の朝廷の混乱と、 求心力の低下に危惧の念を抱き、孫ワンが太子に定められていたが、まだ幼く国政を執ることは無理であるから、人望のある皇族を次期皇帝に迎えるべきだと、 朱皇后に計った。 そこで、孫和の子で16才の孫皓が皇帝に迎えられた。 孫皓は即位前は、人望もあって素行も良かったが、皇帝に迎えられてからは一変してしまった。粗暴で驕慢、酒色に溺れる典型的な暴君として史書に描かれてい る。 濮陽興と張布は後悔したが、時すでに遅く、そのことを 讒言するものがあって、孫皓冊立に功績のあった2人が誅殺されてしまった。 孫皓は無駄な遠征や、無意味な行幸を繰り返し、甘露元 年(265)武昌(建業、現在の南京よりはるか南西。荊州の江夏郡)に遷都、翌年にはまた建業に戻った。先帝の皇后の朱氏を自殺に追い込み、鳳皇元年 (272)には荊州の最重要拠点西陵(元の夷陵)の歩闡が街ごと晋(すでに魏から晋に禅譲している)に降ってしまった。 孫皓は陸遜の子、陸抗に命じて攻撃させ、歩闡は捕らえ られ殺された。 孫皓の素行と君主としての振る舞いに、大きな問題はあ るが、彼なりの理由がなかった訳ではない。 思い起こして貰えれば、先に記した太子党、魯王党と分 裂した際、歩騭は魯王党であり陸遜は太子党であった。太子であった孫和の子である孫皓に、歩闡は歩騭の子である。ここにも孫権の継嗣問題が尾を引いていた のだ。 そして、孫権晩年以降、呉の皇室の求心力は低下してお り、呉の諸豪族との間に溝が出来てしまい、そのために強権的かつ恐慌的な政治によって、孫氏による支配政権を確立しようと思った、と考えたとしても、彼の 即位した状況では仕方ないと言えよう。 そういう意味では、諸葛恪は2つに割れた呉の国内を1 つにまとめるべく、押しも押されぬ功績、つまりは戦勝を重ねて権威付けようとした結果、焦って失敗したのである。失敗しかつての魯王党の勢力が盛り返さぬ ように、尊大驕奢に振る舞っても、皇室に対しての気持ちに、間違った所はなかった。そういう意味では誅殺されるほどの罪があったわけではない。 しかし、その結果は、孫峻、孫綝という2人の専制者を 生み、呉の孫氏に対する求心力をさらに低下させてしまい、孫皓がその跡を受けて皇帝の座に就いた経緯となる。 もしくは、あまりの絶望的な状況に、孫皓自身自暴自棄 になったとも言えなくはないのだが・・・。 もちろん、孫皓のその行為が、呉の命運を保たせるのか というと、それは全くの別問題なのは言うまでもない。 先に挙げたように、呉の政権は孫氏と呉の豪族同士の結 びつきによって、成り立っている。上に戴く者として、信頼するにたる人物であってこそ、であったが、その結びつきもズタズタになっており、君臣間の溝は最 早取り返しのつかない所にまできていたのだ。 呉の状況を憂える物はもちろん少なくはなく、その1人 が陸遜の子陸抗であった。 陸抗は陸遜亡き後、荊州の西陵方面一帯の軍事を預かる 任に就いていた。先の歩闡が西陵ごと晋に降った際も、陸抗は自身が治めた場所でもあったために、晋の援軍を防ぎつつ、これを降している。 晋では荊州方面に車騎将軍羊祜が出陣して、巴東監軍徐 胤が水軍を率い、荊州刺史楊肇(ようちょう)がこれに加わり、西陵の歩闡を迎えるべく攻め入ったが、陸抗は見事にこれを防いだ。 羊祜は陸抗侮り難しとみて、武力による攻撃から徳によ る教化を主点とした国境政策に切り替え、呉からは羊祜の恩徳を慕ってくるものが続出した。 陸抗は羊祜の才を認め、羊祜もまた陸抗の器量を褒め称 えた。陸抗が羊祜に酒を送ると、疑わずそれを飲み、羊祜が陸抗が病気としると薬を送り、陸抗もまたそれを飲んだ。 両者を謗る者もあり、孫皓は詰問の使者を送ったが、羊 祜は容易に攻める事が出来ないと知ると、徳と信義を修めて呉の人々の心を晋に寄せようとしたのだった。陸抗は配下の者それぞれに、 「相手がもっぱら徳を行い、味方が酷いことばかりやっ ているのであれば、戦わぬ前から降伏してしまっているようなものだ。それぞれが持ち場を正しく守り、ちっぽけな利益を追わぬようにせねばならない」 と言い聞かせて、呉の皇室の求心力が低下して、人心が 離れて行くのを、専ら防ごうとしているのだった。 その陸抗も鳳皇3年(274)に陸抗は病死した。 ○呉の滅亡と 晋の全国統一 好敵手陸抗の死を受けて、羊祜は晋の武帝司馬炎に対し て、この機会に呉を攻め滅ぼすべく上奏する。しかし、朝廷では反対派の方が多く、賛成する物は土預(どよ)や張華など少数派で、見送られることになった。 その上奏の2年後晋の咸寧4年(278)羊祜は病に伏 せり、自らの死期を悟ったためか入朝して、司馬炎に直接呉平定を説いた。 しかし、病が重くなった羊祜はその年の11月に病死し てしまう。司馬炎は葬儀で哀悼の大きさのあまり、髭が凍る程涙を流すのであった。 羊祜の死を聞いた荊州の晋と呉の市場は、市場は閉じら れ、嘆き悲しんだ。敵味方共に慕われていたのである。 羊祜は自らの後任に土預を指名し、また長江の上流であ る益州刺史に王濬が水軍を揃えて呉平定の命を待ちわびていた。 孫権死後、呉の朝廷は悪戯に大赦を乱発したが、孫皓は それに増した。その暴君ぶりは度を越して、宴会を開いては家臣に酩酊するまで酒を飲ませ、酔って話している言葉を、書き写させ、それで処罰を行った。 また、後宮に女性を次々入れては、自分の意にそぐわな い女がいると、目をくりぬき、皮をはぎ、殺して宮廷に流れる川に流してしまう、という有様であった。 羊祜の後任として対呉戦線の指揮を荊州で執っていた土 預は、この呉の内情を上奏して、今こそ呉を平定する好機である、と知らせた。 晋の朝廷は、羊祜の時と同じく反対派があったが、益州 刺史の王濬からも度々上奏があり、土預から2度目の上奏があったとき、その場で司馬炎と共に碁を打っていた張華は、碁盤を退け手を修めて、司馬炎に決断を 請うた。 そこで、ついに司馬炎は呉平定を決断する。 晋の咸寧5年、呉の天紀3年(279)11月、鎮東将 軍司馬伷(しばちゅう)、安東将軍王渾(おうこん)、揚州刺史周浚、建威将軍王戎(おうじゅう)が徐州建業方面に、平南将軍胡奮、鎮南将軍土預は荊州から 侵入し、益州刺史龍驤将軍王濬、広武将軍唐彬(とうひん)は益州側から水軍を率いて長江を東下した。 そして大尉の賈充を大都督に任じて、全軍の指揮を執ら せ、呉に対して全面攻勢に出た。 呉は丞相張悌(ちょうてい)、護軍将軍孫震、丹楊太守 沈瑩(ちんえい)、副軍師諸葛靚(しょかつせい)が、これを防ぐべく長江を渡った。 緒戦で勝利した呉軍であったが、周浚率いる晋軍と対 峙、沈瑩の率いる精鋭5千がこれに攻撃を仕掛けたが、周浚はこれを凌いだ。 これまで堅陣を幾度も破った沈瑩の精鋭であったが、3 度攻撃を仕掛けて敗れず一度軍を退いた。ここで晋軍は逆撃を加えて、沈瑩の軍は混乱した。 結局この混乱が呉軍全軍に響いて、呉は全面崩壊を起こ し、張悌、孫震、沈瑩は捕虜となり斬られた。 張悌はかつて諸葛亮に取り立てられたことがある人物 で、諸葛靚は諸葛誕の末子で呉に援軍を求める際に人質として呉に送られた人物である。 張悌は、魏が蜀を平定する際、それまでに蜀平定は失敗 したので、呉の群臣は皆今回も失敗するだろうと予見したが、「魏は曹操以来、その武に服して来たが徳に従ったわけでなく、司馬氏は徳によって慕われてい る。寿春で3度反乱が起こっても、また皇帝が背いてそれを除いても四方は安泰であるのは、その証拠だ。 蜀は連年の出兵で疲弊しており、朝廷では宦官がはびこ り、強弱は明らかであるのに、出兵して不可と言うことはない」と述べ、その通りになった。 大敗して、諸葛靚が手勢をまとめて退却の準備中、張悌 が逃げずに居たので手を引くと、「私は今日死ぬべきなのだ。子供のころ、あなたの一族の丞相に引き立てて頂いたが、常々知遇に対して死するべき時を誤らな いか案じてきた。 今、身をもって国家に殉じるのだ。どうかそのように手 を引っぱらないでくれ」と言ったので、諸葛靚は泣きながら手を放した。 晋の水軍に向かった陶濬は「蜀の船は小型なので、大船 と2万の兵で破れます」と言ったが、出発の前に兵は逃亡する有様であった。 水軍が瞬く間に建業にせまり、また徐州方面の司馬伷等 も迫って来たので、ついに孫皓は降伏した。王濬、司馬伷が建業に到着するとこれを許した。ここに呉は滅んだのである。 晋の咸寧6年(280)2月のことであった。 孫皓は5月には晋の都洛陽に到着し、正式にその身を許 され、太康5年(284)洛陽で死ぬまで過ごした。 こうして、晋はついに3国を統一した。 −晋の統一政権と崩壊の兆し− ・統一政策と 貴族政治 中国大陸を統一した晋政権は、まず政権の基盤を整える ために、戸調式を公布した。 一般の農民にそれぞれ田畑を与え、そこから租税を徴収 し、また官にもそれぞれの品(等級)に応じて、田を与えた。 これは一般に見れば、国家が小作人を雇い直接納税とい う形であるが、官の方を見れば、晋の公人、つまり権力の立場にある者の、大規模な土地所有を制限しているものでもある。 即ち、天下を治める者は、清く正しく無ければならな い、という後漢の宦官による腐敗、汚職政治を嘆いて「清議」「清談」と呼ばれる、華北名士による論壇による流れであり、曹操のブレーンや司馬懿その人もそ の中の1人であった。 権力を持つ者は、だからこそ清貧であるべきである、と その論調は儒教的理想政治から、ともすれば老荘思想に傾き、仙人的無為の精神を尊ぶ傾向にあった。 そこに司馬炎の徳による政治、儒教的理想をうかがう事 はごく自然な流れであるし、当時のオピニオンリーダー達は、そのような理想を語り、貴族的性格を強めていった。 統一された中国は、すでに外敵は無いのであるから、常 備軍の撤廃・縮小が計られた。もちろん、まったくのゼロというわけではないが、州軍などの地方常備軍の大幅な削減が行われるに到る。これは政策的に武力支 配から文治支配、つまり徳による政治施行であるとの明確な意思表示であると言って良い。 だが、理想と現実が必ずしも一致するものでないこと は、言うまでもないだろう。 当時の政界や上流階級の人々の間で、清談を旨とした論 調が主流であったが、その彼ら自身、晋の貴族、大豪族で富豪なのである。その論と実がかけ離れているのだ。 そもそも、当時の人材登用の法は、魏の陳羣が整えた 「九品官人法」による、「在野の有能・有徳の士を広く登用する」ことを目的に、行われたものの、そのシステムは各郷村で形成されているコミュニティで行わ れる郷論による人物評価を元に、有能・有徳の位を判じようというものだった。 しかし、後漢末期以来の争乱で、農村や都市の多くが流 民と化してしまい、元来郷村に在ったコミュニティが崩壊しており、その流民も魏の曹操が始めた屯田によって強制移住させられた人々が新たに共同体を構成す るに到った。そのような経過で成立した新たな郷村、コミュニティで在野の士の論壇、人物評価が成立するかと言えば、否であろう。 結局、その法の理念は混乱した世の中から、有能・有徳 の士をすくい上げることに在りながらも、結局その根本から外れており、ではどのように運用されているのかと言えば、結局元からの権力者、門閥主義者の良い ように扱われるのである。 当時の清談界、清く正しくを旨とする論壇界にある名士 達も、金銭を貯め込み吝嗇に走り、また暮らしぶりの華美を競い、その豪華さは皇帝を越える程であった。実際の政権運営、現実的な実務処理や対処能力に、そ の清談の中身との乖離することは甚だ激しいものであると言える。 かつて魏は、皇族が曹丕以来皇族曹氏が官職につくこと を禁じており、曹氏は武門のみに限定したため、宗室を守る藩屏が存在せず、結果皇室から人心が離れて司馬氏に取って代わられたのである。 何しろ曹丕の弟曹植は「県令でよいから」官職に就かせ て欲しいと頼んだほどである。今風に言えば村長程度であろうか。 その反省からか晋は魏から禅譲を受け、晋帝国となって すぐ司馬氏一族28人を王に封じている。各地方の常備軍を削除したため、強大な軍事力を有しては居ないが、朝廷内外の文武要衝が司馬氏で固められた。 統一と太平の到来に世は安泰に見えても、その内実は非 常に浮かれて、浮薄にも見える。 理論上、権門(権力者や門閥貴族)は清くあるべきであ り、統一され外敵が存在しなくなったのだから、と言う理由で、戸調式と常備軍削減と、軍閥政治から文治政治への転換が図られた。 内外の要衝は皇室一族で固められているため、司馬氏の 世は盤石と思えたが、武帝司馬炎在任時から、問題点が浮上する。 ・司馬氏継嗣 問題と外戚 司馬炎は器量の良い人物で、寛容であり「有徳」の人物 であったようだ。秦の始皇帝と漢の武帝のみが行った封禅の儀式を、家臣から勧められた経緯を見ても、なかなか立派な人物であったと言っても、あながち間違 いではないだろう。(封禅の儀は司馬炎が辞退して沙汰止みになった) その武帝が父司馬昭の跡を継いだのは、決してすんなり 言った訳ではなかった。 司馬昭には知っての通り兄司馬師がいた。司馬師には娘 は居たが男子が無く、司馬師の養子として、司馬炎の10才離れた同母弟の司馬攸が跡を継いだ。 この司馬攸は、人望と才知、有徳の点に置いて、司馬炎 の声望に優っていた。これは祖父司馬懿も認め、また父司馬師も高く買っており、「これは景王(司馬師)の天下である」と言って、司馬攸を次期皇帝にと考え ていたのだった。 後に太子が立てられる時に、群臣の反対にあって、晋王 太子は司馬炎に落ち着いた経緯がある。 この司馬攸声望論が、にわかに持ち上がった。 司馬炎の皇太子である司馬衷(しばちゅう)があまりに 暗愚なために、司馬攸に対する朝臣の嘱望の念は、一方ならぬものがあった。 武帝司馬炎も、その気持ちを察しており、心安良かでは なかった。 何しろ、皇帝に即位後の青年になってからでも、天下が 飢饉で民が飢えている事に対して、 「何故、肉がゆを食べないのか」 と、言い放った男である。これでは有望な人物に期待す るのも、あながち間違いではないだろう。しかし、楊皇后の「後嗣は長子によって立てるので、賢ではありません」との言葉を受けて、司馬衷が結果2代皇帝を 継ぐ。 皇后である楊氏は、後漢に三公を出した名門の出であ る。皇位について皇后に冊立した楊氏は名前を艶と言い、司馬衷の実母である。 この楊艶が泰始10年(274)病で37才にして亡く なる前、我が子で皇太子司馬衷の行く末が案じられるので、自分の次の皇后に同じ楊氏で叔父楊駿の娘を、と涙を流して哀願したので、皇后の喪が開けてから、 司馬炎は楊駿の娘楊芷(ようし)が皇后に迎えた。 一方の司馬攸に対しては、司馬炎は斉王に封じられ司空 と三公の地位と、朝廷の重鎮であったが、太康3年(282)に任国である斉に行くように命じられたのである。皇太子司馬衷の障害となるであろう、司馬攸を 体よく追い出そうとしたのである。 この勅命はショックであった。 1つは司馬攸自身がである。彼自身、自分の名声と能力 に自負もあったのであろう。司馬炎の補佐として朝廷で重きを成すことが当然と思っていたが、突如「自分は用無し」なのだ、と塞ぎ込んでしまった。 もう1つは朝廷の群臣への動揺であった。皇太子への失 望から必然的に司馬攸が、武帝司馬炎の補佐に続いて、司馬衷が皇帝となった暁には、引き続いて彼が補佐するものだと思っていたのだ。司馬攸が補佐すると思 えばこそ、晋はなんとか安泰ではないか、と言う機運は当然で、むしろ2代皇帝に司馬攸をと再び司馬攸継嗣論が持ち上がりつつさえあった。 司馬攸は、この命令を受けて発病し、斉へ出立してすぐ その途上で病死した。37才であった。 この一連の事件で、群臣は失望感から朝廷では活発な議 論が行われなくなった。大陸統一を果たし、日の出の勢いであった晋朝廷は、その勢いを失った感がある。 その朝廷に皇后2人を輩出した楊氏の楊駿とその弟楊珧 (ようよう)、楊済の3人の楊氏、俗に「三楊」と当時呼ばれた彼らが権勢を得て行くのであった。 このように、後漢の廃退を招いた外戚問題と、歴代の王 国・帝国が大小の問題を起こしてきた後継者問題の2つが、武帝存命中からすでに表面化しているのである。 ・司馬炎の死 と権力闘争 太康10年(289)司馬炎は病を得て床に伏せってし まった。皇族の皇子、皇孫が封国を任じられて朝廷から出され、将来司馬衷の藩屏になるべく手が打たれた。 しかし、楊駿は司馬炎死後、自ら権力を独占することを 望み、司馬炎が楊駿、司馬亮、衛瓘の3人が補佐をして司馬衷を盛り立てるように望んだが、それを皇后の父の立場を利用して、後宮において司馬炎の病床に ずっと侍り、ついに司馬亮、衛瓘(えいかん)の名を削り、遺勅を改ざんすることになったのである。 太煕元年(290)4月、司馬炎は亡くなり、武帝と追 号された。享年55才。父司馬昭と同じ年であった。 司馬亮は、司馬師・司馬昭の弟で、当時の司馬一族の長 である。その司馬亮を汝南王に封じて外に追い出そうとしたが、当然一筋縄で行くはずがなかった。一触即発の状態になったが、司馬亮が武帝の葬儀が終わって すぐ、夜陰に紛れて都を出たために、衝突は回避された。 楊駿の弟楊済は「兄が退いて、汝南王に任せれば、楊家 も安泰なのだが」と外戚と皇室の長が争う事に危惧を抱いていたのだった。 その懸念は早くも現実のものとなる。楊氏、楊太后と楊 駿の専横を一番近い所で見ていた、2代皇帝恵帝司馬衷の皇后である賈南風の反発であった。 彼女は晋の重臣賈充の娘で、皇太子司馬衷の后に、衛瓘 と賈充の娘のどちらかとされたとき、楊皇后などから賈充の娘の賈南風を勧められて納まった経緯があった。 彼女は女性ながら激しい人物で、男勝りという言葉を越 えたほどであった。 夫の側室が妊娠すると、それに鉾を投げつけ、腹の子ご と突き殺すなど、他にも自ら数人を手にかけて殺した程である。 その残虐性は、司馬炎も激怒して幽閉し皇后から廃そう としたが、結局周囲の諫めもあり、また賈充の娘であることを考慮されて、そのままにおかれた。 夫である恵帝司馬衷が、あまりに頼りないものであるか ら、このように我の強い彼女が様々に口出しするのは、当然な流れであり、そして常々楊氏専権を苦々しく思っていたのであった。 賈后は宦官の董猛を通じて、楊氏に反感を持っていた孟 観・李肇(りちょう)を誘い、汝南王司馬亮に楊氏誅殺と、楊太后廃立を要請した。 しかし、司馬亮はこれを断ったために、楚王司馬瑋(し ばい)に白羽の矢を立てた。司馬瑋はこれを了承し、弟の淮南王司馬允と共に入朝した。 楊駿は司馬瑋が勇猛であったため、外に置くよりは手近 に置いた方が都合がよいと考えたために許可したのであった。 司馬炎が亡くなった翌永平元年(291)3月楊駿解任 の詔勅が出されると、司馬瑋は宮中を守り司馬師の弟司馬伷の子東安公司馬繇(しばよう)が禁中の兵を率いて、楊駿のいる太傅府へ向かった。楊駿に「宮中に て変事が起こった」と知らせる者もいたが、彼自身為す術を知らず、禁軍を率いて攻められると、あっけなく全員捕まり楊一族を始め、楊氏一派は処刑された。 恵帝司馬衷の義母で太后の楊太后は、賈后の陰湿な謀で もって、まず彼女の母の龐氏を殺し、楊太后には食事を与えず餓死させた。まだ34才であった。 −八王の乱と晋帝国の崩壊− ・汝南王・楚 王の変 楊氏一派が粛正されたあと、任地に赴いていた汝南王司 馬亮が呼び戻され、輔政の任についた。また楊氏専断のため一線を退いていた衛瓘も復任して、共に政務に携わった。武帝が望んだ、司馬亮と衛瓘の輔政という 形に落ち着くかに見えたのである。 楊氏排斥に功のあった東安王司馬繇は、すぐに公の地位 に落とされる。にわかに権勢を得た司馬繇は、その勢いであって賈后も廃そうと動きを見せたので、賈后一派が警戒して先手を打ったことであった。 司馬亮・衛瓘は次に司馬瑋に対して兵権を奪うべく動い た。勇猛果断な楚王司馬瑋を兵権を持たせたまま朝廷にいることに危惧の念を抱いていたのだった。 この気配を察した司馬瑋の側が、賈后に接近して、逆に 司馬亮・衛瓘解任の密勅を取り付けた。賈后はかつて司馬衷の太子妃の位を衛瓘の娘と争った経緯もあり、また2人が司馬衷を補佐していると、自分が好きに専 断出来ないために、賈后が司馬衷に書かせたのであった。 6月、禁中北軍を掌握した司馬瑋は、洛陽内外の諸軍を 動員して、汝南王邸と衛瓘邸を囲んだ。「二心がないのに、何故こうなるのだ」と司馬亮、衛瓘は大して抵抗もせず捕らえられ、すぐに斬られた。 司馬瑋近辺は、今軍を握っているのだから、この際賈后 一派も排斥するのがよい、と進言するものがあったが、司馬瑋は迷った。 この時賈后側は、「司馬瑋は2公を殺めており、これを 罪に誅すればよろしい」と、司馬瑋への密勅を偽勅として罪を着せて、司馬瑋を退けようと手を打った。 勅命によって汝南王・衛瓘を討つ事を喧伝した司馬瑋 は、その勅命を偽勅とされて、そのために周囲の軍は彼から瞬く間に離れていった。捕まった司馬瑋は嘆いたが、結局司馬氏内の勢力争い、また単純な兄弟同士 のいがみ合いを利用された形で、司馬瑋も殺されてしまった。 賈后はこうして邪魔者が居なくなったが、父賈充も亡 く、自分で好き勝手にするといっても、実際に実務を運営する能力はなかったので、誰に政務を任せるかが問題となった。 そこで武帝以来の功臣だが、名門の出でないために自ら を侵される心配のない張華をその筆頭に選んだ。この張華が筆頭に運営した10年余りは平穏な日々が続いた。 ・太子司馬遹 の殺害と司馬倫の簒奪 賈后には男子が居なかったために、他の后の子司馬遹 (しばいつ)が太子になっていたが、この司馬遹は「司馬懿の再来」と言われるほど若い頃は司馬氏嘱望の的であった。剛毅で果断な性格であった司馬遹は、そ の性格から賈后専横を憎んでおり、当然賈后との反目は隠然たるものがあった。 しかし東宮で一万の禁軍を有している司馬遹に、賈后も 簡単に手を出せず、謀を巡らした。 まず恵帝が司馬遹に会見を望んでいると呼び出し、そこ で酒を下賜されたと偽り、酩酊させた上で、皇帝・皇后を弑逆する文を書かせ、それを証拠として太子を廃嫡した。 この太子廃嫡を受けて、趙王司馬倫が兵を挙げた。司馬 倫は司馬懿の子で司馬師・司馬昭の弟であったが、たいした能力はなかったので、腹心の孫秀に司馬倫を操られているのだが。 太子廃嫡され、すぐに兵を起こそうと計ったが、太子司 馬遹はかつて趙王が賈后党であったことを怨んでおり、賈后を廃して太子復位した後、功績が報われないのではないか、と危惧を抱いた。 そこで趙王の計画をわざと賈后側に漏らし、太子を賈后 側の手で殺させると、遂に賈氏殲滅の兵を挙げた。 永康元年(300)4月、賈后による太子廃嫡と殺害の 非を鳴らすと、兵はこれに従い、斉王司馬冏(しばけい:かつての斉王司馬攸の子)が宮中に突入した。 賈后の妹の子、賈謐(かひつ)が賈后の前に逃げて来た が、これを斬り捨て、賈后が「何故お前がここにきたのか」となじると「詔勅がある」と答えると、「詔勅は私が出すものだ」と逃げたが、捕まえられ後に毒殺 された。 趙王司馬倫は、相国に登り孫秀はその下で手腕を振るっ た。司馬倫は暗愚な恵帝を廃して、自ら皇位に就こうとの野心を膨らませる。元々身分が低く司馬倫に取り入って出世した孫秀は、司馬倫が皇帝に就けば貴族名 族でもない自分が高位に登れると、巧みに司馬倫を煽った。 武帝司馬炎の子、淮南王司馬允は剛胆で兵士にも支持が あったが、司馬倫が帝位簒奪の野心を抱いていると見抜き、これに対して密かに兵を挙げる準備を整えた。 8月司馬允を大尉(軍の最高位)に任命して、兵士と切 り離そうと試みた。 司馬允はこれを見抜いて、病気を理由に断ったが、孫秀 はさらに使者を送って勅命であると引き受けるよう懇請したが、その勅命は孫秀の書いたものであった。 激怒した司馬允は「趙王に叛心あり」とすぐに兵を向け た。宮中に進むと、門を閉じて抵抗したため、趙王の居る相国府へ向かった。司馬允は勇猛果断で兵も精兵であったため、700人の司馬允の攻撃に対して千人 以上の死者を出した。 宮中で激戦が繰り広げられている最中、皇帝側近でも趙 王・淮南王側と策動しており、淮南王側の中書令陳準が宮中から淮南王に皇帝が支持する旨の使者を送ったが、この使者の伏胤が趙王の子司馬虔と親友であっ た。伏胤は勅使であると淮南王の側に進み、戦闘中に勅使に対する礼をとらせ、無防備になった所を捕らえて司馬允を殺してしまった。 淮南王司馬允の趙王司馬倫排斥の反乱は、こうして失敗 に終わると、司馬倫は翌永興2年(301)正月、ついに帝位に就いた。司馬氏内での禅譲が行われたのである。 司馬倫は賈后による皇太子司馬遹廃立の対して兵を挙 げ、その司馬遹の子司馬臧(しばぞう)を当初皇太孫に冊立したが、帝位に就くとこれを殺してしまった。 こうして、後に「八王の乱」と呼ばれる司馬氏衰亡の争 乱が始まったが、それは当初外戚による賈后専権を排除することを目的としながらも、それらを排除した後の政治的ポリシーも無く、ただ権力を得るということ のみが目的としており、それは孫秀に見えるように、貴族でも名族でも無い彼が、貴族となるべく、それらと通婚し、また同じ趙王配下で張林と争って、これを 誅殺するなど、目先の営利を求める以外に、何も無かったのである。 ・乱の全国へ の波及 帝位簒奪を行った司馬倫は、そう簡単にその地位が安泰 とは言えなかった。すぐさま反発が引き起こされる。2月には、賈后排斥に功があったがすぐに邪魔者として洛陽の外に出された許昌の斉王司馬冏が、すぐさま 司馬倫に対して反旗を翻し、孫秀誅殺を名目に諸侯に檄文を送った。 鄴の成都王司馬穎(しばえい)は、腹心の盧志(盧植の 曾孫)の勧めによって、すぐさま司馬冏に呼応して兵を起こした。 これに長沙王司馬乂(しばがい)、新野王司馬歆(しば きん)が続き、一旦は司馬倫側に就いて援軍を送った河間王司馬顒(しばぎょう)のように、司馬冏・司馬穎側が勢い強く大軍であったために、司馬冏側に付い た者もあった。 司馬倫はこれに兵を出して対処し、初めしばしばこれを 破ったが、趨勢は司馬倫と孫秀誅殺の空気が都洛陽の内外にも流れており、次第に不利になり遂に敗走を重ねた。 司馬倫は「私は孫秀に誤らせられた」との詔勅でもっ て、退位を宣言し、廃立された恵帝司馬衷を再びその玉座に迎えることになり、司馬倫・孫秀ら一派は全員処刑された。 こうして司馬倫の簒奪による混乱は収束を見せたが、ま た皇帝の輔政を誰が行うかの問題があった。 つまりこの乱を治めた司馬冏、司馬穎の2人が争う危険 性が、これまでの晋朝廷の流れを見れば、十分に在ったのである。新野王司馬歆は司馬冏を、長沙王司馬乂は司馬穎を、それぞれ「相手の兵権を奪え」とけしか ける皇族が居たのである。 しかし、この危機は司馬穎の鄴に帰還という事態で回避 された。司馬穎配下の盧志の進言によるものであった。ここで争うよりは鄴に帰り、死者を丁重に葬り天下の人望を得る方が良い、との言葉を受けたのである。 こうして司馬冏が恵帝の側にあって、政治を司ったが、 これも長くは続かなかった。6月に乱が終息して、そのわずか2ヶ月後、司馬冏の兄東莱王司馬蕤(しばずい)が、庶民に落とされ流罪にされた後に殺された。 兄の司馬蕤はかねがね酒の席で弟司馬冏の悪口を言い、また将軍府を開く事を望んだのを断った事を恨みに思っていたからである。幼稚な兄弟争い、同族同士の いがみ合いである。 翌永寧2年(302)皇太孫司馬尚が亡くなり恵帝の血 筋が無くなった。 当時、盧志の補佐を得て司馬穎の名声が高かったので、 彼を皇太弟に推す動きがあったので、司馬冏は先手を打って、司馬穎の兄(恵帝の弟でもある)清河王司馬遐(しばか)の子で8才の司馬覃(しばたん)を皇太 孫に冊立した。 こうして、自分が長期に渡って輔政出来る体制が整う と、司馬冏は驕奢の度合いを高めていった。自らの大司馬府を造営して、皇帝の東宮に匹敵するほどにしたり、私党を重役につけ、政治を私した。それは自分が 倒した司馬倫に比せられるほどであり、内外から批判が相次いだが、これを無視したため、彼の人望は急落していった。 このような振る舞いをしていれば、朝廷内外の反発を招 き、反乱を誘発するのは、この晋帝国の短い歴史の中だけでも学ぶことは可能であろう。 そして乱のきっかけも、また矮小な事績から発端してい るのだった。 長安にいる河間王司馬顒の腹心で、当時は都洛陽に校尉 としていた李含が、司馬顒(しばぎょう)に司馬冏を討たせることによって、同時に自分の仇敵である皇甫商を殺させようと策動したのである。 李含は雍州の人で、貴族豪族の出身ではないから自らの 才幹だけで出世した人であった。そのため同じ雍州出身の豪族皇甫氏の出である皇甫商とはいがみ合っていた。そして皇甫商は今司馬冏の下で働いているので あった。 李含は司馬顒のいる長安に帰り、都洛陽にいる長沙王司 馬乂に檄文を送り反旗を起こさせ、逆に司馬冏に司馬乂を殺させてその罪を鳴らして司馬冏を討てば、権力を握れると焚きつけた。実戦力で遙かに劣る司馬乂を 使ってわざと乱を誘発させようとしたのである。 司馬顒はこの李含の策に乗って、李含自身都督に任じ て、洛陽に兵を向けた。同時に諸王に檄文を送って同調を求めると、鄴の司馬穎もこれに応じて兵を送った。司馬穎腹心の盧志は、これに反対したが、この頃司 馬穎は盧志の進言忠告を、聞かなくなっていたのである。 司馬冏は、司馬顒から自らの非を鳴らす上奏文が届くと 狼狽し、為す術を知らなかった。李含は洛陽に迫ると、司馬乂に檄文を送って、司馬冏を捕らえるようにし向けた。しかし、これは逆に司馬乂を司馬冏に殺させ ることによって、その非を鳴らし司馬冏を殺す名分を得ることにある。 その李含の思惑とは裏腹に、司馬乂はまず宮中に入って 皇帝を擁した上で、司馬冏の大司馬府に攻め入った。ここで激戦が繰り広げられ、帝の周囲にも多数死者が出るほどで、3日間も続いたが、遂に司馬冏が捕らえ られてしまった。 こうして斉王司馬冏とその一族一派数千人が首を切られ た。 李含の案に反して司馬冏は司馬乂に倒されてしまった。 司馬乂は専権を握ることなく、大小の事案全てを鄴の司馬穎に仰いで指図に従っていた。 その周辺で李含は皇甫商とその兄皇甫重を、どうにかし て廃そうと争っていたが、李含は司馬乂に誅殺されてしまった。 この李含の死を機に、司馬顒・司馬穎の2人はまたもや 同時に兵を挙げた。太安2年(303)8月、長安から司馬顒が7万、鄴の司馬穎は20万を越える兵を洛陽に向けたのである。長安河間王軍は張方、鄴成都王 軍は陸機が率いて、それぞれ東西から洛陽に迫った。 長沙王司馬乂は大軍に対して果敢に戦い、10月には陸 機との間に激戦が繰り広げられた。この戦いで成都王軍は大敗、一転して今度は西方の河間王軍張方率いる兵と戦った。洛陽の東西で奮戦した長沙王軍は、張方 を破った。張方は崩れそうになる味方を励まし、総崩れになるのを踏みとどまって洛陽城外に堅陣を構えた。 長沙王司馬乂は、兵の支持も篤く、恵帝司馬衷にも忠臣 であったので、張方の水攻めで洛陽内外の食料が危機に陥っても、容易に破れる気配はなかった。陸機軍は大敗を繰り返し、また陸機が旧呉の人であったため司 馬穎配下との軋轢もあり、大敗の責任を押しつけられて、また謀叛を中傷を受け処刑されてしまった。 戦いの情勢は司馬乂優勢で進んでいたが、朝廷内外では 長く続く戦乱に悲観的な思いを馳せる者も少なくなかった。 東海王司馬越は、それらを忌み嫌う人々と共に、太安3 年(304)正月、司馬乂を捕らえて地位を剥奪した。驚いた兵は、まだ長沙王側が優勢であるのを見て、王を取り戻そうとする動きもあったので、司馬越は洛 陽城外の張方に密かに司馬乂が幽閉されている場所を密告して、張方に殺させた。長沙王司馬乂は28才であった。 こうして武帝司馬炎の子で、恵帝司馬衷の弟成都王司馬 穎が、丞相の地位に就いた。 これまでの司馬氏の内乱において、主導的な立場であり ながら、身を辞して人心を集めていた司馬穎であったが、この頃の彼は盧志らのコントロールを外れて、驕慢であった。 皇太孫司馬覃を廃立して、司馬穎が皇太弟に冊立される と、内外の批判を浴びてしまう。 本拠地の鄴に戻っていた司馬穎に対して、洛陽の朝廷は 司馬穎討伐の軍を起こした。朝廷で司空の地位にいた東海王司馬越が起こしたのである。これに対し石超が成都王軍の指揮を執った。司馬越軍は恵帝を奉じて皇 帝親征を行ったために10万を越える大軍が集まったが、石超軍側の勢いは激しく、破れて司馬越は逃走し、恵帝は鄴に迎えられることになった。 この司馬穎に常々反目していた幽州都督の王浚が、先の 司馬越の北伐に呼応する形で、鄴に兵を進めていた。東海王軍を退けた司馬穎であったが、司馬越から転じて王浚に当たった石超、石斌はこれに破れてしまう。 鄴に王浚軍が迫ると、それまで威勢を誇っていた司馬穎 周辺は騒然となり、逃げ出す者が続出する有様となった。 そこで司馬穎は近臣と恵帝のわずかな人数で洛陽にまで 逃げ落ちた。洛陽では司馬顒配下の張方が駐屯しており、これに奉戴された恵帝は、すぐさま長安への行幸を強制された。 すでに司馬穎は兵もなく実権も人望も失墜しており、こ れに抗する力はなかったのである。張方は洛陽を惜しむ恵帝等に対して、その気持ちを断つために洛陽を焼き払おうとしたが、盧志の「董卓と同じ事をして恨み を買うのか」と言った為に、それは沙汰止みになった。 長安に行くと司馬穎は皇太弟の位を剥奪され、彼の弟の 予章王司馬熾(しばい)が皇太弟に立てられた。 河間王司馬顒は、朝廷の内外の荒廃を見て、東海方面に 逃げた司馬越と和解して朝政を正そうとしたが、司馬越はこれを受けなかった。 ・八王の乱の 収束と晋帝国の崩壊 恵帝を洛陽に戻すべく、永寧2年(305)7月、東海 王司馬越は徐州にて檄文を諸王に送って兵を挙げた。 先の幽州の王浚や、徐州東平王司馬楙(しばぼう)、幷 州新蔡王司馬騰、青州高密王司馬略、冀州南陽王司馬模(しばも)、許昌范陽王司馬虓(しばこう)がこれを支持して、司馬越を盟主に戴いた。 翌8月、琅邪王司馬睿(しばえい)を徐州の守りに残す と、洛陽、長安に向かって進軍を開始した。 張方を大都督に任じた司馬顒側は当初戦いを優位に進め ていた。この頃、荊州で反乱を起こした張昌討伐していた荊州都督鎮南大将軍劉弘が、反乱を平定すると、東海王司馬越側に付いたために、形勢は逆転した。 劉弘は張方が暴虐で人心を得ないとの見通しから、当初 は司馬顒・司馬越の争いを仲裁しようとしたが果たせず、結局司馬越に付いたのであった。 敗戦を重ねた司馬顒軍は、一時和睦をしようと計った が、張方がそれに反対する。この乱の責任を自分に押しつけようとする雰囲気を察したのであった。司馬顒側がさらに情勢が悪くなるにつれ、張方を除こうとす 機運が高まり、司馬顒は遂に張方を暗殺する。 しかし、この時点で司馬越側は圧倒的優位であって、も はや和睦など必要としなかったのだった。 成都王司馬穎は、洛陽方面に出陣していたが、張方の死 による司馬顒軍瓦解を受けて荊州に逃げるも、その最中捕まり殺された。司馬乂と同じく28才だったのは皮肉に過ぎようか。 長安の司馬顒軍は簡単に蹴散らされ、恵帝は司馬越側に 迎えられた。司馬顒はしばしば長安周辺関中を取り戻したが保てず、長安から逃れた。後に招聘された所を妻子共々殺されている。 そして乱の翌年の12月、争乱の中心であった恵帝が急 死する。餅を食べた事が理由らしいが、司馬越による暗殺も囁かれている。 司馬懿の弟汝南王司馬亮、趙王司馬倫、司馬師跡を継い だ司馬炎異母弟司馬攸の子斉王司馬冏。 武帝司馬炎の子楚王司馬瑋(しばい)、長沙王司馬乂 (しばがい)、成都王司馬穎(しばえい)。 司馬懿の弟司馬孚の孫河間王司馬顒(しばぎょう)。 司馬懿の弟司馬馗(しばき)の孫東海王司馬越、これら 司馬氏八王の乱はこれで一応の収束を見せた。 改元され光煕元年(306)予章王司馬熾(しばい)が 皇帝に即位する。後に贈り名で懐帝と呼ばれる。 司馬越は太傅として懐帝輔政の任についたが、この時点 ですでに晋帝国は中国全土を支配する力を保っていなかった。 この八王の乱で、都洛陽から長安周辺、広く見れば華北 全域で戦乱による荒廃と、凶作による飢饉等によって、多くの民が難民化しており、特に長安や西域一帯の難民が流民として漢中、益州へと逃れて行った。 この様な流民は漢民族系と、非漢民族系に大きく分けら れる。中国国内でその地位も低く、奴隷身分も多かった彼ら非漢民族が真っ先に難民となるのは、想像するに容易で、漢中、益州と逃れて行っても、そこで彼ら は簡単に受け入れては貰えなかった。 益州にも当然晋朝廷から任命された刺史が居たが、彼ら はこれらの流民に対して悪ければ差別的扱い、良ければ故地に追い返そうと計った。こうして迫害を受けた彼ら流民は、氐族の族長李特を中心にまとまっていっ た。 永康2年(302)には益州の州都である成都を凌ぐ勢 力になっていたが、翌年に益州刺史羅尚と戦い、これに破れて李特は戦死した。 しかし、子の李雄が跡を継いで、成都を制圧、永興元年 (304)成都王を自称し、その2年後に帝位に就いて国号を「成」と称した。後に国号を「漢」に改めたので「成漢」と呼ばれる。 この益州の混乱と多くの流民が、今度は益州を逃れて荊 州方面、湖北に多くの流民がさらに逃れて、混乱は拡大していく。 当時湖北は豊作であり、その食料を目指して流民がそこ に逃れて行った。そして地域社会の不安定化により、そこにつけ込んだのが蛮族出身の張昌で、彼は流民を自らの軍にまとめると、当時荊州を治めていた親野王 司馬歆が流民、蛮族対策を強硬したために、これを逆に攻めて殺してしまう。 張昌の反乱軍は、その部下石冰が揚州にまで入り込ん で、混乱は中国南部一帯に波及していったのである。 上に見たように、張昌の反乱は劉弘とそれに協力した江 南豪族によって鎮圧されたが、その反乱を鎮圧した晋将陳敏が反乱を起こすなど、その支配権は洛陽長安を中心とした一部に成り下がりつつあったのである。 ・西晋の終演 〜永嘉の乱〜 晋帝国の支配力の低下は、中国南部だけではなかった。 魏の武帝曹操以来、漢民族に降った北部系異民族は幷州に部族単位でまとまって管理されていたが、その族長劉淵が、この八王の乱で混乱する晋朝から独立し、 永嘉2年(308)司州平陽で漢帝を自称した。劉淵はかつて匈奴の大単于於夫羅が漢帝国の姻戚となっており、母方の劉性を名乗り、晋の打倒と漢の復興を標 榜したのである。 劉淵が2年後の永嘉4年(310)病没すると、その子 劉聡が兄劉和を殺して帝位に就いた。劉聡は晋軍と戦いながら、一族の劉曜、王弥、石勒などを派遣して晋の首都洛陽に迫らせていた。 この逼迫した情勢において、晋朝では懐帝と司馬越の反 目という、今までと同じ宮廷争いが繰り返されていた。 かつて皇太弟であった清河王司馬覃を殺害し、自らは丞 相の地位に昇った。これまでの争いで禁中の武官が力を握っていたので、これを免官させたり殺したりした。 そして、この暴挙によって懐帝と司馬越の反目は決定的 となり、また司馬越は同時に人望も失ってしまった。 漢の石勒が洛陽に迫ってきたので、司馬越は許昌に赴い て、兵を募ったが誰もこなかった有様である。 永嘉5年(311)懐帝は司馬越が洛陽を離れたのを見 計らって、青州刺史荀晞(じゅんき)に司馬越討伐を命じた。 その年の3月、懐帝が自らに背いたことに憤りの余り、 発病した司馬越はそのまま亡くなった。 司馬越の跡を継いだ襄陽王司馬範(楚王司馬瑋の子)が 大将軍となってその軍を率いたが、翌4月に石勒の軍と予州陳郡で激突する。 この戦いは一方的な戦いで、10万人以上が殺されると いう大敗を喫した。 そして司馬範を始め、司馬超(司馬冏の子)、司馬済、 司馬澹、司馬喜、司馬禧(しばき)の宗室が全員首を刎ねられた。 東海王越死亡の報に接すると洛陽からは多くの人が逃げ 出し、その一行も石勒の軍に捕まって、司馬氏がここでも多く殺されその数は36とも46とも言われた。 洛陽の懐帝以下は、洛陽から東に逃げようと城外に出た が時すでに遅く、すぐに漢の軍に捕まり、皇太子司馬詮を始め、宗室以下3万人が殺された。 懐帝は会稽公に封じられ、平陽に送られたが、2年後の 永嘉7年(313)2月に毒殺された。 この晋崩壊のきっかけを作った司馬越との争いを、年号 の永嘉をとって「永嘉の乱」と呼ばれる。 晋帝国はここに滅んだのである。 ・亡国の愍帝 と司馬睿の東晋 当時長安は漢の劉曜が攻め落としていたが、晋勢力が奪 還して、洛陽陥落前にすでに脱出していた司馬炎の子呉王司馬晏の子秦王司馬鄴(しばぎょう)が迎えられた。 司馬鄴はこうして皇太子になり、懐帝が殺されたと伝わ るとその年の4月帝位に就いた。愍帝(びんてい)である。 無論、帝位と言ってもすでに長安を中心とする関中の支 配がせいぜいであった。 愍帝即位の年から、漢は度々侵攻を繰り返し、建興4年 (316)の攻勢で長安城の外城が陥落し、ここに愍帝は降伏を決意した。すでに城内には皇帝が食べる食料すら尽きていたのである。 この愍帝も懐帝と同様に捕らえられ、翌年に殺されてい る。 こうして名のみ残っていた晋帝国は、名実ともに消えて しまったのだ。 かつての呉の都建業で司馬睿が、晋帝国を再興し、皇帝 を名乗る。 司馬睿は武帝の叔父司馬伷の孫で、華北の名族王氏の王 導の協力を得て、亡き東海王の命で建業に居たのである。 上に滅んだ晋帝国を「西晋」、また建業は西晋の都洛陽 より東であるから、この司馬睿の再興した晋を「東晋」と呼ぶ。 江南諸豪族は、晋崩壊の混乱の中、どの勢力に付き従う か動向が定まっておらず、また下手に動けば晋に反する者として逆賊の名目で、周辺豪族から叩かれかねないので、ここに司馬睿を推戴し、江南諸豪族をまとま るほうが自らの益することになると考え、かつて孫策を迎えたように司馬睿を迎えたのであった。 華北では太興元年(318)漢の劉聡が死ぬと、にわか に外戚の靳準が政権を奪い、皇帝に就いた劉粲まで殺すに到り、長安の劉曜と石勒がそれぞれ漢の都平陽に迫ってこれを攻め降した。 この後劉曜が帝位に就いて新たに趙を建国、石勒も独立 して同じく国号を趙としたため、劉曜を「前趙」、石勒を「後趙」と呼ぶ。 司馬氏の内乱、権力の争奪と、それを奪還しようとする 皇帝側の争いに端を発した中国の混乱は、異民族の力を利用しようとして、結局彼らに自立する力を自覚させたのである。 その原因は、常備軍を削減したために、彼らの力を利用 せざるを得なくなった為とも言え、武帝司馬炎時代の政策から求める事が出来よう。 武帝時代、清談を論じて、貴族豪族による、彼らの為の 政治は、その社会の底辺にいる民衆の支持を失い、現実的政策と対処能力を失わせていたのである。だからこそ、漢軍が洛陽に迫っても、権力を争っている暴挙 を行えたのだ。 そしてそれまで奴隷の地位に居た異民族は、その不満が 最も激しく、彼らをして晋帝国を滅ぼしたのは、むしろ当然の結果であったのかもしれない。 華北の漢民族は司馬睿の江南政権に逃れて、漢民族朝廷 を再来させる。益州を制して中国を南北に分割し、華北では五胡十六国と呼ばれる程目まぐるしく民族と王朝が変わっていく。 しかしそれが終わるのは、禎明3年(589)に隋の楊 堅が、統一するまで待たねばならないのであった。 ◎参考文献 陳寿『正史三國志』ちくま学芸文庫 1993 川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫 2003 福原啓郎『西晋の武帝司馬炎』白帝社 1995 駒田信二・寺尾善雄編『中国故事物語 教養の巻』河出 文庫 1983 |